一瞬の浮遊から急速な落下の直後、顔面を中心にした身体の正面側全体が鈍くも鋭くもある衝撃と痛みに襲われた。
 突然の出来事に頭は混乱して、指揮系統はメチャクチャ。唯一まともに機能しとる五感が痛みを認識しとるだけの状態や。必然的に身体は動かれへんで、俺はただ硬直しとるしかなかった。

「謙也さん、朝から喧しいっすわ」
「――― ひか、る……?」

 そんな中で聞こえた気怠げな足音が俺のすぐ傍で止まった。そして悲しいかな、知り合ってからのこの数か月の間で、すっかり聞き慣れてしもてる毒舌が降る。
 反射的に身体が動いて顔を上げる。と、標準装備の眉間の皺が今朝は一段と深いし多いしで見るからに機嫌が悪そうな、足音通り気怠さ全開の後輩と目が合うた、気がする。微妙に逆光なっててよう見えへんから、はっきりとは言えへん。そんでも心なしか顔色が悪い気がする。
 そういえば、今の毒舌も普段に比べて鋭さに欠けとったような……。

「そもそも謙也さんは存在自体が充分喧しいんすから、大声出さんといてくれます? ほんま耳障りなんで」
「んなっ……!?」
「あと自分、いつまでそうやっとるつもりすか? それとも地面の一部に成り切っとるとか? ほなら遠慮なく踏ませてもらいますわ」
「は、ちょっ、やめ、足上げんなや!! ほんまに踏もうとする奴があるか!? ちゅーか人に足引っ掛けて転ばせたんは自分やろ!!?」

 爪先に違和感として残っとる他とは違う種類の痛みに確信を持って叫べば、光は眉間の皺を深くした。
 剰え、視線を逸らして舌打ちする。

(って、図星なんか……!)

 急いで立ち上がった俺は光に背中を見せへんように後退りして、距離を取った。やっぱり光は光や。いつも通り刃物より鋭利な毒舌の持ち主や。
 他の奴が言うたら冗談と思えることでも、光が言うたとなると八割強が実は本音やからな。たとえ実行に移す確率が五分五分でも、油断は禁物やった。
 特に今日の光は目が据わっとって、本能的な身の危険を感じてしゃーない。一瞥されて思わず肩が跳ねる。

「……意外に元気そうっすね」
「……。は?」
「いや、何でもないすわ。それより今って朝練の時間すよね? こないなところで謙也さんは何しとるんすか?」
「あ、ああ ――― って、それは光も同じやろ。自分こそ何しとんねん」
「寝坊して今来たんすわ。昨日はなかなか寝付けなくて、ようやく寝付けたいうても朝方やったんで」

 そう言われると、光の目許にはうっすら隈ができとるのが確認できた。
 どうやら顔色の悪さは見間違いやなかったようやけど、これは健康オタクの白石が知ったらまた……。……。

「謙也さん?」

 サアッと。光のことを言われへんくらい、自分の顔色が急激に悪なるのを自覚する。
 足引っ掛けられるは盛大に転ぶは、いろんな衝撃ですっかり失念してもうてたけど、蘇った恐怖に身体が震え出す。

「ちょっ、謙也さん? どないしたんすか?」
「ひひひひひか、ひかっ、しっししし、しら、らい、がっ……!!!」
「いや自分噛み過ぎやろ。何が言いたいんかサッパリすわ」

 身体と一緒に唇も震えて、奥歯がカチカチ鳴る。
 上手く喋れへんそんな自分がもどかしくて、俺は肺一杯に息を吸った。そして吐き出す勢いに乗せて、声帯を振るわす。

「せやからっ! 白石が ―――」
「俺が、何やて……?」

 背中に掛けられた若干息切れしとる声に、時が止まった気がした。

 同時に強烈な悪寒が背筋を這い上がって身体が震える。口ん中はカラカラや。心臓は周りに聞こえとるんとちゃうかっちゅーくらい騒いで、その音が鼓膜を支配しとる。昨日と同じや。せやけど昨日とは違て、金縛りに遭うてへん身体には自由がある。逃げようと思えばこの場から逃げることができた。
 せやのに、俺の身体は全身を支配する恐怖と、それに伴う逃走願望とは裏腹に動く。
 瞠目したかと思えば顰めっ面になった目の前の光から視線を外して、ぎこちなく後ろを振り返った。

 声の近さからして、そこには声の主である白石の姿が見えてへんとおかしな状況や。
 でも現実、俺の目に最初に飛び込んで来たんは。視界を埋め尽くし、白石の姿を影も形もなく覆い隠すやった。

 頭ん中が真っ白になる。
 そして刹那、身体は本能に従った。

さあああああああああああああああああああああああん!!!」
「――― な……っ!?」
「ちょ、まっ、――― 謙也っ!!?」

 駆け出す寸前に光の腕を掴んで、俺は二度目の逃亡に出た。
 白石はそんな俺の腕こそ掴んで止めようとしたんか、光の腕を掴むのとは反対の手を風が掠める感覚がした。そこからまた悪寒が這い上がって、ぞっと鳥肌が立つ。ますます止まる訳にはいかんかった。
 ちゅーかあの女に遭うた時に勝るとも劣らん恐怖に、そもそも止まれる訳があらへん。寧ろ足の運びが速まる。

 ほとんど引き摺っとる状態の光を気遣う余裕もあらへんほど、兎に角俺は必死やった。
 実際、先にバテた光がくずおれたのに引っ張られて足が止まるまで、光の存在を失念しとったほどや。でも無意識やったとはいえ、一人で逃げ出すような真似せんかった自分の行動は褒めてやりたい。

「光!? す、すまん、大丈夫か?」
「っ、……け……っ、さん……」
「お、おう。何 ――― ったああああ!!」

 光は完全に息が上がって、言うてることは途切れ途切れやった。そんでも呼び掛けられたことはわかったから耳を近付ける。――― 瞬間、思いっ切り頭をひっぱたかれた。
 パーならまだしもグーで、ひっぱたかれたっちゅーか殴られたもんやから、その痛みは半端なもんやない。

「い、いきなり何すんねん!?」
「当然、の……、報いや……!」
「何でやねん!!?」
「喧しいわ」

 いきなしタメ口になった光はまた一発、さっきよりも強烈な一撃を寄越した。
 こ、こいつ、ほんま可愛げがないだけに飽きたらず、何ちゅー暴力的な奴や。俺は先輩やぞ。人のことっちゅーか、主に俺のこと舐め過ぎやろ。

 そう思て二度も殴られた箇所を両手で押さえながら、恨みがましく光を睨み付ける。ほんでも眉間の皺と一緒で、顰めっ面が標準装備やから必然的に熟練しとる光の眼光には敵うもんやない。睨み返されてあっさり気圧されてもうた俺はすぐさま目を逸らした。
 ……俺、先輩やのに。我ながら情けないことこの上ない。
 そう落ち込んどると、視界の端に光がこっちに手を伸ばす姿が映った。三発目を想像した身体が反射的に強張るけど、光の手はグーやなくて半端なパーの形をして、向かう先は頭から微妙にズレとった。そして頭を押さえる手の手首を掴まれ、思わず肩が跳ねる。

 そんでも拘束は五秒足らずの短いもんやった。
 同時に解放されてた時間も短くて、光は俺の腕を掴んでは解放することを無言で何度も繰り返した。

 な、何やねん、いきなり。ちゅーか、これってどういう状況?
 気のせいやなかったら、腕を掴まれとる時間が段々長なっとるんやけど……。

「――― 謙也さん」
「お、おお?」

 いきなりの呼び掛けに声が裏返ってもうたけど、珍しく鼻で嗤うことも白い目で見てくることあらへんかった光は、真剣な表情で更にこう続けた。

「昨日、何があったんすか」

 それは疑問文に見えて疑問符がない、“何か”があったこと確信しとる台詞やった。

 ちゅーても、そのことに気付くより先に俺の頭を過ぎったんは、あの女と繰り広げた死ぬ物狂いの追い駆けっこのことやった。――― いや、死ぬんが嫌で逃げ回ったんやから“死ぬ物狂い”っちゅーんは表現として語弊があるけどな。“必死”も以下同文でアウト。って、こない日本語の勉強、今はどうでもええっちゅー話や。
 光に答えるいうより、あない恐ろしい出来事は俺自身が早いとこ忘れたくて、俺は自分に言い聞かせるように否定の言葉を口にした。
 せやけど昨日のことを思い出して反射的にまた肩が跳ねた俺の反応を、光は見逃さんかった。元からの鋭い視線と相俟った無言の圧力が痛くて目が泳ぐ。けど逃げようにも手首を掴まれとるから身動きが取れへん。
 かと言って、あないな恐怖体験、思い出すのも嫌なんやから語るなんて以ての外や。

 第一、俺かてあんな目に遭うたからこそ、否応無しに視えるようになってもうたモンたちや。
 さっきは混乱しとったから言い掛けてしもたけど、皮肉にも殴られたことで冷静になった思考をよくよく働かせれば、あんなんは視えないことが当たり前のモンや。そんな存在の話をしても簡単に信じられるもんやない。実際、昨日の夕方までの俺やったら絶対に信じてへんかったて言い切れる。
 俺でも疑う話やで。光の性格なら尚更、話しても鼻で一笑されるんが落ちや。

 膠着状態に陥った中、校舎から響いたチャイムの音が遠くに聞こえた。
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