目を開けて最初に映ったんは、見慣れへん木目調の天井。
 カーテンやのうて障子に遮られた陽射しに、窓の外から聞こえる雀の囀り。
 年季の入った箪笥と文机ふづくえと、張られた紙の角が剥がれてたり日焼けして少し黄ばんでたりしとる襖。

 自分の家でも誰か知り合いの家でもない見知らん部屋の畳に敷かれた布団の上で、気付いたら朝を迎えとった俺は、そんでも妙に冷静やった。
 そら目が覚めて最初の一瞬は状況が把握できんくて戸惑ったけど、辺り一帯に漂っとる澄んだ空気に、根拠なんか何一つあらへんのに絶対的な安心感を覚える。せやけど一方では昨日の出来事が夢やなかったんやと思い知らされて、じわじわ込み上げる実感と一緒に涙まで込み上げた。

「お目覚め?」

 そしたら急に声を掛けられて、涙の気配があっちゅう間に引っ込んだ。
 驚いて声がした方を振り返ると、いつの間に襖が開けられたんやろ。昨日の女の子が割烹着姿で立っとった。

「おはよう。気分はどう?」
「お、おはよ ――― ッ!!」

 掛けられた挨拶に条件反射で応えたけど、途中で慌てて口を噤んだ。更に両手で口許を押さえる。
 鮮明に蘇る恐怖に身体が震えて、いつどこから襲って来るか知れへん恐怖に身体が強張った。

「そんな過敏にならなくても、この家の敷地内にいれば一先ずは安全だよ。第一昨日散々大声出して泣いたんだから、気にするだけ今更だし」

 言われてみれば確かに。辺りに漂っとる空気は相変わらず、ほんの一点の汚れでも大きな汚れに感じられてまうくらい澄み渡ったまんまや。
 思えばあの恐怖を予感させとったもやもやも感じられへんし、やっぱり何一つ根拠なんかあらへんのに、絶対的な安心感がある。
 せやから女の子の言葉を信じてええんやと、感覚的にやけど確信した。
 同時に強張っとった身体から力が抜けて、一度は引っ込んだ涙の気配が戻って来よる。そこで今更、目許がヒリヒリすることに気付いた。そういえば昨日、女の子が言う通りアホみたいに号泣したんやったっけ。その上寝落ちしたて自分……。

「昨日も一応冷やしたんだけど、やっぱり腫れてるね」

 想像しただけでも情けない有り様やのに、それが現実なもんやからますます情けなくて落ち込む俺の傍らに、女の子はそう言って膝をついた。
 伸ばされた手を受け入れるつもりで目を閉じると、女の子の手は恐る恐るっちゅー感じで俺の腫れぼったい瞼を覆う。直前まで水仕事でもしとったんか割烹着の袖を捲った手はひんやりしとって、熱を持っとる患部には冷たくて気持ちいい。思わずため息が零れた。

「……時間は充分あるし支度も整ってるから、お風呂に入りがてら冷やして来な」

 せやけどその手はすぐに離れてもうて、物寂しさに駆られる。
 そしたら女の子は困ったみたいに曖昧な顔をして、一度は引っ込んだ手が今度は目の前に差し出される。

 俺は反射的に、その手を握った。


 烏の行水言われるくらい入浴時間が短い俺にはしては珍しく、ゆっくり浴槽に浸かりながら冷やした目許は、風呂を上がる頃には大分腫れが引いとった。
 コンビニ辺りまでわざわざ買いに言ってくれたんか、包装されたまんま用意されとった下着と無地の服に着替えて、風呂出たら来るように言われとった部屋に向かう。

「ああ、いいタイミングだね。そこの料理、隣に運んでくれる?」
「お、おう……」

 教えられとった部屋は台所だったらしくて、朝食の支度をしとった女の子は俺が声を掛けるより先にこっちに気付くと、焼き魚と漬け物、まだご飯が盛られてへん逆さまの茶碗が乗ったお盆を顎で示した。
 言われた通り隣の居間に運んで、座布団の位置に合わせて卓袱台に並べてると、女の子も湯気の立つ味噌汁椀を持って現れる。
 女の子はそのまま座布団に正座して、既に用意されとった炊飯器のご飯を茶碗に山盛り一杯よそって差し出した。

「成長期の男子がどれくらい食べるか知らないけど、ご飯と味噌汁ならおかわりがあるから遠慮なくどうぞ。いただきます」
「お、おおきに。いただき、ます……」

 急いで俺も座って茶碗を受け取って、朝食に両手を合わせる女の子に倣って両手を合わせて、箸を取る。
 まず最初に手を付けた豆腐とワカメとネギの味噌汁に、風呂に浸かって外側から温まった身体が今度は内側から温かくなる。同時に胃袋が刺激されて、そういえば昨日は寝落ちしてもうたから夕飯を食べてなかったっちゅーことを思い出して、むくむくと食欲が湧き上がった。

「そういえば……」

 人間が持つ三大欲求の一つにあっさり負けて朝食を掻き込んどると、不意に女の子が口を開いた。

「昨日君が寝てしまった後、君の携帯が鳴っていてね。申し訳ないとは思ったけど自宅からの着信だったので出ない訳にはいかないと判断して、勝手ながら取らせてもらったから」
「……あ。そ、そういえば何も連絡してへん……」
「母親、万里子さんだっけ? 電話に出た瞬間、第一声で怒鳴られたのには驚いたけど適当に理由並べて一晩君を預かると伝えておいたから、怒られる心配はないのでご安心を。ただ後で君からも連絡入れておくように」
「さ、さよか。あの、何から何までほんまおおきに。ありがとう」
「別に。咄嗟とはいえ、君を助けた時点でもう今更だし」

 女の子は淡々とした口調のままやったけど、その視線は泳いで大分居心地が悪そうやった。
 何でやろ。洒落やなくほんまに命を助けられたから御礼言うとるだけやのに。
 ちゅーかそんな相手の名前を未だに知らん俺って、人として問題ありとちゃうか。命助けられただけやのうて、一晩世話になった上に風呂と朝食までご馳走になっとるし。

「……なあ。俺の名前、忍足謙也っちゅーんやけど、自分の名前教えてもろてもええか」
「え?」
「え、……あかんの?」
「あ、いや、その……」

 そしたら虚を衝かれたっちゅー歯切れの悪い反応されて、俺の方こそ虚を衝かれる。

 命の恩人の名前やから知りたいし、できれば何か御礼したいんやけど……。
 そういえば俺のこと助けたのは奇跡や言うとたし、今も乗り掛かった船みたいな渋々感があるし、これ以上関わるのは迷惑とか思われとるんやろか?
 ……。……あ、在り得る! この子の今までの言動からかんがみれば、充分に在り得る話やで!!

「すまん! いや、すんませんでした!!」
「は、……はあ?」
「命助けられただけやのうていろいろ世話なって、面倒ばっかり掛けてもうてほんまにすんません! で、でも、お陰で俺は助かったし、その、命救われたのに見合うのがどんなもんか知らんけど、何か御礼がしたくて、えっと……」
「……別に。さっきも言ったけど、君を助けた時点で今更だし。何よりわたしには、君に感謝される謂われなんてないよ」

 最後に味噌汁を飲んで食事を終えた女の子は箸を置くと、真っ直ぐ俺を見て嗤った。
 俺のことをやなくて自分を嗤う、自嘲的な嗤い方やった。

「わたしはね、本当は君を見殺しにしようとしていたんだ
「――― え」
「君だけじゃない。わたしは君みたいな目に遭った人間をこれまで何人も、何十人も見殺しにして来た。対岸の火事って言うの? どうせわたしには何の火の粉も掛からないし、所詮は他人事だからね」
「せやけど俺のことは助けて ―――」
「言ったでしょう、“奇跡”なんだって。本当に助ける気があったのなら、そもそも君は彼女と遭遇すらしなかったのに、わたしは何もしなかった」

 言われてあの恐怖がまた蘇った。背筋がぶるりと震える。

「彼女と遭遇しなければ君の才能が開化することはなかった。君の才能が開化しなければ、君は何も視ることはなかった。……何も視えなければ、君は何も知らずにいられた」
「……」
「つまりわたしには、君に恨まれる理由こそあれど、感謝される理由なんて全くない。だから御礼は要らないし、こんな人間の名前なんて知る必要はないよ」

 そう言った女の子の表情は自嘲の色が最初よりも濃くなっとって、それが俺には泣き笑いに見えた。ほんまは泣きたいくらい辛くて悲しいのに、無理に笑顔を取り繕っとるように。
 それがあまりに痛々しくて、何や俺まで泣きそうになる。

「……そんでも、自分が俺のことを助けてくれたんは事実や」
「だからそれはたまたまであって」
「奇跡でも偶然でもっ!」

 否定的な言葉を重ねようとした女の子に、思わず声を荒げて遮ってまう。
 恩知らずで罰当たりな行動やけど、そんでも俺はこの子が痛々しく自嘲するのをこれ以上見てたなかった。

「自分、昨日言うたやろ。俺はあの女みたいな碌でもないのに限って好かれて、せやのによう今まで無事でいられたって。つまり俺はいつ昨日みたいな目に遭うててもおかしなくて、せやけど自分がおったお陰で助かった。一度見殺しされても、結局は助けてもろたんや。感謝せえへん訳ないやろ!!」

 そもそも眠ってたっちゅー俺の才能が開化した云々の話は、俺がこうして助かっとるからこそできるもんやん。
 ほんまに見殺しにされとったら、才能が開化する以前に死んで終わり。俺が今ここにおることはなかった。
 そらあんなグロいもんがいきなり視えるようなったんは正直キツいけど、まだ十三の身空で死ぬよりはマシやし、命あっての物種っちゅー話や。

 そう捲くし立てる内に熱なってもうた俺の勢いに気圧されたんか、女の子はポカーンとしとった。
 そっからゆっくり表情が消えて、またわらう。今度のは昨日も今日も見た、困ったように曖昧な表情の、苦笑やった。
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