と、誓ったんはええけど、その直後に早速、俺は一つ目の誓いを危うく破りそうになった。
 そんでもどうにかギリギリ、女の子と繋いどるのとは反対の手で口を押さえて、事なきを得る。
 せやけど口を押さえたのは声を出さんようにするためだけやなくて、急激に込み上げた吐き気を押さえるためでもあった。すぐさま目を逸らしてんけど、それでも、ほんの一瞬で脳裏に焼き付いた強烈な映像に、気持ち悪さは消えへん。ほんまに吐きそうや。

「君、もしかしてえてる?」

 そしたら、女の子が質問よりは確認のニュアンスで訊いてきた。何を、とは言われんかったけど察しがつく。
 多分俺らがおるこの路地とすぐ脇の本道がぶつかった向こう角 ――― 『子ども飛び出し注意!』っちゅーイラスト付きの、まだ真新しい注意喚起が貼られた電柱の前に立っとる、幼稚園児ぐらいの男の子のことや。でもただの男の子やない。
 左半身が何かに擦り付けられたみたいに汚れとって、顔面に至っては下ろし金にでも掛けられたみたいに皮膚も肉も削げて、骨まで見えとる。

 考えるまでもなく異質な存在やった。

 そんでも確かに、男の子はそこに存在しとる。

「わたしも詳しい訳じゃないけど、どうやら彼女との遭遇に感化されて眠っていた才能が目を覚ました、ってところかな。……それにしても、彼女みたいなのが滅多にいないとはいえ、もともとああいう碌でもないのに限って好かれる素質があるのに、よく今まで無事に生きてこられたね」

 頷いて肯定した俺に、女の子は感慨深げに言う。せやけどそないしみじみ言うこととちゃうわ!
 大体眠ってた才能って何やねん。素質って何やねん。
 おまけにその言い方やと、聞きようによっては今後がお先真っ暗っぽくて、むっちゃくちゃ不吉なんやけど……!

「まあ一先ず、あの子供に関しては大丈夫。“死”が唐突だった上にしばらく車体の下で引き摺られて、あの見た目通り結構惨たらしい死に方をしたことであの場に居着いちゃってるけど、同じ年頃の子供でなければ連れて行かれる心配はないし。彼女と比べれば可愛い存在だよ」

 女の子は恐ろしいことをまたもさらっと言いよった。

 けど俺から言わせてもらえば、そこにおる男の子にもあの女にも何一つ大差なんかあらへん。
 ちゅーか「同じ年頃でなければ」って、中学生の俺は対象外でも他に誰か対象になってまう人間は確実におる訳やから、その実どこにも「大丈夫」な要素なんてないやんか。
 間違っても男の子の方を見んように気付けて、俯いとった顔をほんの少しだけ上げて女の子を見ると、どうやらそんな俺の考えが伝わったらしい。女の子は困ったように、曖昧な表情を浮かべた。

「……さっきも言った通り、わたしにできることは少ない。それに電車やバスで席を譲るとか、重い荷物を運ぶお年寄りに手を貸すぐらいの親切なら兎も角、見ず知らずの他人のために捨て身になれるほど、わたしは出来た人間でもない。……わたしが君を助けたことも君がわたしに助けられたことも、そもそもが奇跡なんだよ」

 女の子が言っとることは薄情で無情やったけど、そんでも俺はその意見に対して否定的になれんかった。

 俺かて女の子が言うぐらいの親切はようするし、見ず知らずの他人のために自分の命をなげうつことができるか言われたら、是とは言い難い。
 やっぱり人間、他人よりは自分の身が可愛いし大切やし、それに ―――。

「というか、あの子供にいつ連れて行かれるか知れない他人よりも、君はまず、今正に風前の灯火にある我が身を案ずるべきだと思うけど」

 急に淡々とした調子に戻った女の子の言葉に、思考が遮られる。
 ちゅーか頭ん中が真っ白になった。自分の顔からサッと血の気が引く音が聞こえた気がする。

 せ、せやっ、現在進行形で生きるか死ぬかの瀬戸際におる俺には、ぶっちゃけ他人様の心配しとる余裕はないっちゅー話や!

「理解できたのなら移動しよう。いい加減、そろそろ立てるでしょう」

 座り込んでる俺に合わせてしゃがんどった女の子が立ち上がって、繋いどる手を引っ張った。
 男の子のグロい姿に込み上げる吐き気よりも、あの女に追い掛け回されとった時の恐怖が蘇るのと同時に勝って身体が震えとったけど、俺も女の子の手を借りてどうにか立ち上がる。そんでも男の子の姿を見られる訳ではないし、他にも何や嫌な感覚がして、顔までは上げられへんかった。

 そのまま手を引かれて歩き出す。
 ほんまは目を閉じたかってんけど、そんなんしたらいつ地面に転がる石に蹴躓いて、咄嗟にでも声が出てまうかわからん。
 せやけど時々、俯いとる視界に不意打ちで入り込んでくる火の玉とか血溜まりとか、その真ん中で倒れとる死体とかに、悲鳴と吐き気が喉の奥から急激に迫り上がる。それがいつ零れてまうかわからん状態やった。ただの道のはずが地獄絵図にしか見えへん。
 そんでも、多分俺と同じでこの光景が見えとるはずの女の子の歩みは変わらんかった。

 必死に逃げ回って現在地はよう把握しとらんかったし、女の子に先導されて歩き出してからも自分のことで精一杯やったから、どこをどう、どのくらい歩いたんかはわからへん。
 到着を知らせる言葉と一緒に女の子がようやく足を止めたんは、古めかしい立派な門扉の前やった。
 向かって右の門柱には同じく古めかしい木製の表札があったけど、長年雨風に晒されとった所為なんか、字が薄なっとるし表札自体が黒ずんどるし。場所も丁度外灯が設置された電柱と電柱の間に位置しとることもあって、すっかり陽が沈んどる暗がりの中では何て書かれとるんか読み取れへん。

(そういえば俺、この子の名前知らんわ)

 自己紹介も何もしとる余裕はなかったし喋ったらあかんのやから仕方ないけど、命の恩人やのに。
 そう考えたら助けてもろた御礼まだ言えてないし、最悪やんか俺……。

「段差があるから足許に気を付けて」

 いくら暗がりに目が慣れとっても、時代劇で見るみたいに結構な段差がある門を忠告通り足許に気を付けて潜る。――― 敷地に一歩足を踏み入れた瞬間、上手くは言えへん妙な感覚に襲われた。
 決して不快ではないんやけど、首筋から背筋までぞわぞわして、清澄せいちょう明澄めいちょうな空気に一瞬息が詰まる。
 その間にも手を引かれて今度は玄関を潜ると、色に譬えるなら純白。或いは無色透明を思わす空気が濃くなった。

 それはぞわぞわしよる感覚の割には不思議と安心感があって、何の根拠もないのに、何故か知らんけどもう何も不安になることはないんやと、そう思えるもんやった。
 そしたら自然、悲鳴でも吐き気でもない。今度は涙が込み上げた。
 玄関の電気を点けて振り返った女の子が、そんな俺を見てぎょっとする。

「えっ、え? あれ、君、どうして……? ――― あ、そうなの?」

 何がどうしてなんかも、何がそうなんかも、ようわからへん。
 せやけどそんなんどうでもよかった。

 俺は込み上げる衝動に任せて、形振り構わずに泣いた。号泣した。
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