虫の知らせっちゅーんやろか。
 感覚的なもんやったから上手くは言えへんのやけど、その日は朝から何や嫌な感じがしとった。

 はじめは体調不良が原因かと思たけど、検温の結果は平熱やったし、自分でも特に具合が悪いちゅー感じはあらへん。問診してくれた保険医からも健康優良のお墨付きをもろたくらいや。
 せやけど、それでも何やもやもやして、どうにもスッキリせえへん。
 お陰で授業も部活もいまいち集中できんで、よう気が付くんのが多いテニス部の仲間らには心配掛けさしてしもた。

「あー、ほんまに何やねん」

 全国大会が終わって、先輩らが引退して、これからは俺らの学年が中心になって頑張っていかなあかんのに。出だし早々で余計な気遣わせてどないすんねん。
 特に白石は先輩らを押し退けて部長しとった所為か、気にし過ぎるくらい周りを気にしとる人間なんやから。こない自分でもようわからん理由で余計な気を揉ませるとか、俺のアホ。どアホ。

 そんなんやったからごっつ居た堪れへんかった部活が終わった帰り道。一人反省会しながら帰路に就いとったら、改めて浮き彫りになった自分のアホさ加減を痛感して情けなくなるんと同時に、無性に腹が立ってきよった。
 生憎俺には新しく副部長になった小石川みたいな冷静さはないし、さり気ないサポートも性分的にできひんから、俺は俺のやり方で白石のこと支えてこうて、白石が最初部長になった時の決意を改めたばっかりやっちゅーのに。
 俺自身がダメダメなんもあるけど、このもやもやもほんまに何やねん。

 そんな苛立ちを込めて、足許に転がっとった石を蹴飛ばした。
 思いの他よう飛んだそれを目で追うと、前方に人がおったことに初めて気が付く。

 夏休みが明けて間もない残暑っちゅーても、日が暮れれば肌寒さを覚える夕暮れ時の今する恰好にしては寒そうな、袖なしのワンピースを着た女の人やった。
 石はその人の足許近くに転がっとる。幸い当たってはいないみたいやけど、一歩間違えば危ないところやったし、謝らな。――― せやけど何故か、言葉が出んかった。何か、何かが引っ掛かりよる。今さっきまで全然消える気配があらへんかったもやもやが急に鳴りを潜めて、急激に上昇した脈拍が鼓膜を支配する。まるで警鐘が鳴っとるみたいやった。
 夕陽を背負っとる女の人がどんな顔をしとるかは陰になっててわからへん。ただ不思議と、漠然とした恐怖を感じた。

――― ぴちゃん

 そん時急に聞こえた何か液体が滴るような音で我に返る。それほど大きな音やなかったのに、嫌に耳についた。
 知らん内に女の人を凝視しとった視線を音がしたその足許に移すと、雫はワンピースの裾から滴って、地面には小さな水溜りができとった。せやけど今日は一日中晴れで、そんでも水浴びしたくなるほど暑くはなかった。仮に水浴びしたんやとしてもまさか服着たまませえへんやろし、普通に考えたらワンピースが濡れてるようなことはあらへんはずや。
 しかも見間違いやなかったら、水溜りには色が付いっとった。夕陽の色を映しとるにしては赤い、赤黒い色が。同時に鉄錆みたいな臭いが鼻を突く。

 心臓がより一層喧しく騒ぎ出す。

 唇が、手が、足が、全身が震えた。

 頭ん中では警鐘が鳴り続けとる。

 本能が逃げろと叫んどった。
 せやけど地面に縫い付けられとるみたいに足は動かんし、そもそも指一本動かれへん。

 瞬間、最初に感じた違和感の正体に気付いた。

 夕陽を背に立っとる目の前の女には、本来なら手前に伸びとるはずの“影”があらへんかったんや。


 ――― ニタリ、女が笑ったような気がした。





(在り得へん在り得へん在り得へん在り得へん在り得へん在り得へん在り得へん在り得へん ―――― !!!)

 急に弾かれたみたいに金縛りが解けた瞬間、俺は女に背中を向けて全速力で走り出した。
 せやけどいくら本調子ではなかったちゅーても、部活が終わった直後やから、実際には実力の半分も出てたかどうかわからん速度やったと思う。それでも人より速いはずのスピードに、女が履くヒールの音は一糸乱れず付いて来とった。多分少しでも後ろを気にして振り返えれば、その瞬間に追い付かれてまうほどすぐ後ろに、女はおる。
 ちゅーかどの道、このままいったら捕まるより先に俺がバテて終わりや。具体的にどう終わるんかはわからんけど。考えたくもない。

 そうなる前に誰かに助けを求めようにも、辺りには嘘みたいに全く人の気配があらへん。野良猫とか烏とかの生き物の気配すらもや。
 まるで異次元空間にでも迷い込んだみたいやった。
 景色かて、いくら我武者羅になって走っとるちゅーても、さっきから同じところをぐるぐる回ってるみたいに代わり映えせん。

 何が何だかさっぱりわからんかった。

 女の正体も、この状況も、何で俺がこないな目に遭わなあかんのかも。訳がわからへん。

 ――― 刹那、突如横から襲った力に身体が引っ張られた。
 そのまますぐ脇にあったらしいの路地に引っ張り込まれて、塀に押し付けられる。

 血塗れの女との遭遇に並ぶ突然の事態に思わず息を呑んで、悲鳴が出る前に口を塞がれる。
 塞いできたんは全力疾走して熱いはずの身体で、せやけど熱いんやなくて温かいと感じる人の手やった。手から手首、腕、肩と順にたどってくと、相手が俺と同い年くらいの女の子やと初めてわかる。その視線は俺やのうて、俺が元いた通りに向いとった。
 釣られてそっちを見ると女の、多分服と同じで血に濡れて湿っとる髪の間から覗く血走った眼と、目が合うた。

「――― ッ!!!」

 瞬間、言葉になり切らへんかった悲鳴が出た。口を塞ぐ手の力が強なる。
 そしたら、確かに目が合うたはずやのにまるで俺のことが見えてへんみたいに路地を素通りしようとしとった女が、足を止めてこっちを振り返った。

 びちゃ、びちゃ、びちゃ……。

 何でかは知らんけど、さっきよりも一滴の量が増えた血を裾から滴らせて、女が路地に入ってきた。
 ほんまは今すぐ女の子の手を振り払って逃げ出したかった。でも今度の金縛りが解ける気配は全然なくて、女を避けてこっちに寄った女の子と塀の間に挟まれる形で、俺は身じろぎすらできずに固まっとるしかなかった。

 びちゃ、びちゃ、びちゃ……。

 女の子の後ろを、女が通り過ぎる。

 びちゃ、びちゃ、びちゃ……。

 女はやっぱり俺らの姿が見えとらんのか、そのまま夕闇に紛れて見えへんようになった。
 その瞬間、糸が切れるみたいに力が抜けた。塀に背中を擦り付けながら、ずるずると座り込む。今更自覚した身体の小刻みな震えは恐怖だけが原因やない。女の子の手を温かい思うほど寒くて、誰かの熱がこんなにも安心できるもんなんやって、初めて知った。あかん、泣きそうや。ちゅーか泣いてもええ状況やよな。
 せやけど目の前におる女の子は俺の口を塞ぐ手を離そうとはしなくて、泣こうにも泣かれへん。

「喋らないで。安心するのはまだ早いよ」

 離してくれへんかって、口を動かそうとしたら、女の子は突然そう言った。

「彼女はまだ君を諦めてはいないから、君が少しでも声を発すればすぐに戻って来る。あの様子だと、見つかったらさぞかし楽な死に方はできないだろうね。厄介なのに気に入られちゃって、ご愁傷様」

 女の子の口調は淡々としとったけど、言っとる内容はごっつ恐ろしかった。
 ちゅーかご愁傷様って、被害者は俺やから他人事なんは確かやけど、そない殺生なこと言わんといてや!!

「いや、そんな捨て犬みたいに縋る顔をされても、精々わたしにできるのは彼女の視界から君の姿を眩ませることぐらいであって、君を救うことは……。……。わかった、わかったから、そんな目で見ないで。……取り敢えず、わたしの家に行こうか。一人になったら間違いなく君の人生は終わりだし」

 さらっととんでもないことを言いよる女の子に、俺は蒼褪めながら何度も頷いた。

「それじゃあ手を放すけど、今言ったように、絶対に声を出さないこと。それからわたしと手を繋いで、何があっても決して放さないこと。どちらか一つでも破れば ――― 君、死ぬよ

 ぜ、ぜええええええええったいに喋らへんぞ!! 手やって放さへんぞっ!!!
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