喉を鳴らす度に一層艶めく声を耳元で聞きながら、蔵ノ介はその腕に込める力を強めた。
 通常なら骨が軋むほどの加減だ。しかしその腕に抱き締められるは、その顔を苦痛に歪めるどころか、増した力に比例して色を強める。
 自分の行為に反応するそんなの様子は、何とも蔵ノ介の情を掻き立てた。いっそこのまま、いつもギリギリのところで踏み止まっている一線を越えられたらどんなに甘美か。
 想像するだけで砂糖菓子のような甘い幸福を感じ、けれども実際に越えてしまった時のことを考えると、予備動作も取れずに立ち竦む他ない。

 眠っていた先祖の血に目覚め、本能のままにの血を啜ったあの夜。
 あの日以降、こうしての血を啜り同じ思考を繰り返す度に、蔵ノ介は母が語った吸血鬼の本能を痛感する。

 ――― 吸血鬼っちゅーんはな、不器用な生き物なんよ。

 蔵ノ介が初めての血を啜ったあの夜、母の話はこんな言葉から始まった。

 曰く、ヒトであってヒトではないが故の欠陥なのか、吸血鬼には人にはない生態がある。
 言わずもがな、その名になっている吸血行為のことだ。
 にはその血を吸う相手の条件について“相性”という言葉で説明されたが、気絶したが目を覚ます前。あの夜の時点で蔵ノ介に語られた話で使われた言葉は、もっと明確だった。お陰で第三者、それも身内に改めて指摘されて、筆舌に尽くし難い羞恥に身悶えたのは記憶に新しい。

 ――― 誰の血でもええ訳やない。

 ――― 吸血鬼が血を吸う相手は、吸いたいと思うんは、自分が好いとる相手の血だけなんや。

 吸血鬼にとって、吸血行為は一種の愛情表現なのだそうだ。
 その者の体内で作られ、その者の全身を巡り、その存在を形作る要素の一つである血液を自らの中に取り込み、一つになる。またそれを生きるための糧とし、欠けばあの夜の蔵ノ介のように体調を崩し、最悪の場合は死に至る可能性もある。
 そういう、ある意味で究極の愛を具現し、愛に生きている生き物なのだと。母は語った。

 ――― そんだけ、クーはちゃんに本気っちゅうこっちゃ。

 ああ、本気だ。本気も本気だ。
 中学生の餓鬼が何をと思われるかもしれないが、この想いは蔵ノ介にとって揺らぐことのない絶対だと断言できる。

 ――― せやから我慢が利かんようなった。……何か、きっかけがあったんちゃう?

 ああ、あった。思い出しただけで背筋が凍り、目の前が真っ暗になる出来事だ。

 自惚れではなく、蔵ノ介は自分の容姿が人より優れ、人より異性から好かれ易いことを自覚している。
 特に中学入学後から目覚ましい成長を見せる身体は今もまだ身長を伸ばし続け、蔵ノ介の魅力を一層高めている。例え親兄弟であろうとも“男”の評価に手厳しく、何より男に求める理想が高い姉から、お墨付きをもらったほどだ。
 そして事実、蔵ノ介が一人で街に出れば、所謂逆ナンに遭わない日はない。

 また同時に、蔵ノ介は“女”という生き物が如何に陰湿で狡猾な生き物かを知っている。
 身内の贔屓目なしに美人であるため男にモテる姉に嫉妬し、不特定多数の女たちがその姉に対して一体どれだけえげつない方法で嫌がらせを行って来たか。そんな性根の腐った女に騙されるなと、忠告のようでいて実質的には愚痴であった姉の体験談を散々聞かされていた蔵ノ介は、その所行の数々を鮮明に覚えている。
 その癖ここ最近では、姉を通して蔵ノ介とお近付きになろうとする魂胆の見え透いた連中が、都合よく掌を返しているというのだから。女という生き物は斯くも恐ろしい。

 だからこそ、家を中心にした生活 ――― 言わばプライベートの時は兎も角、学校生活においては、蔵ノ介はを徹底的に避けている。

 最初の理由はが“女”だからだったが、の人間性を知り、を好きになって以降は、のことを守りたいから。
 いくらが肉体的にも精神的にも強い人間だろうと、自分に恋愛感情を抱いた人間のつまらない嫉妬でに何かあって正気でいられるほど、蔵ノ介はが関係する事柄に対して理性的ではない。何しろ姉の件で家族以外の女性に不信を抱くようになっていた蔵ノ介にとって、は初恋なのだ。
 初めて抱いたこの感情に、何も知らないの一挙一動に、一体どれだけ振り回されたことか知れない。

 故に蔵ノ介は、学校生活でと関わることを徹底的に避けた。
 そうでもしないと、自制が利かないこの感情のまま、守りたいはずのを逆に傷付けてしまう気がしたから。

 幸いクラスが遠く離れていたため、実行するのは難しくなかった。
 けれどもあの日、蔵ノ介は初めて、構内での姿を見掛けた。否応無しに蔵ノ介がよく訪れる、告白スポットとして有名なその場所でだ。

さんが好きです。オレと恋人になってください」

 聞こうとして聞いたのでなければ、聞きたくて聞いた訳でもない。寧ろ聞きたくなどなかった。
 色恋沙汰に疎く、姉や妹にその手の話でからかわれて赤面するは何度か目にしたことがあった。しかし自分以外の男の告白に赤面するの姿なんて、見たくなどなかった。
 そして何より、疎い上に鈍いが誤解しないような言葉を選んで告白した男が、堪らなく憎らしかった。――― 羨ましかった。

 お陰で蔵ノ介があの時あの場所を訪れる理由となった手紙の主に半ば八つ当たりし、手酷い断り方をしてしまった。
 今更フォローなんてすればあらぬ誤解を招き、期待を持たせる可能性があるため、もう手の打ちようがないけれど。

 それが、きっかけだった。


「く……、……す、け……」
「――― っ」

 掠れた声で途切れ途切れに名前を呼ばれるのと同時に、拠り所を求めて背中へ回されたの手が爪を立てた痛みによって、蔵ノ介は我に返った。回想に耽り、蘇った嫉妬に駆られてつい飲み過ぎてしまったと、慌てて牙を抜く。
 そのまま口まで離してしまい、穴の形をした傷からぷっくりと血が零れ出した。
 日焼けしていないの肌に映えるその色合いに蔵ノ介は心臓を跳ね上がらせたが、ぶり返す衝動をどうにか抑え、吸血行為に及ぶ前にも散々したように、の首筋に舌を這わせて唾液を塗り込む。
 本能的な行動であるが、どうやら吸血鬼の唾液には、麻酔と治癒力を高める効果があるらしいのだ。お陰で牙を立ててもが痛がることはないし、傷も既に塞がっている。

 それを確認してから、蔵ノ介は顔を上げた。

 そして今回の失態からの顔色を窺おうとして、を抱き締めていた腕を動か ――― そうとした。だが力加減が僅かに変化しただけで悩ましげな声を上げたに、蔵ノ介は硬直する。
 同時に弛緩した身体をしだれ掛けて来たを、緩めようとした力を逆に強めて慌てて支えた。そのまま更なる安定を求めて床に座り込む。

「だ、め……、動く、な……」
「おっ」
「――― っ、喋る、な……」

 たった二音 ――― 吃ったため三音になるところだったが ――― の返事を一音で遮られる。
 どうやら蔵ノ介の身体に凭れている今のには、そこから伝わる微かな振動すらも耐え難いものらしい。

 その理由は、こちらも蔵ノ介の唾液にあった。
 吸血鬼の唾液には麻酔と治癒力向上の効果だけではなく、どうも催淫剤としての効果もあるようなのだ。
 恐らく母が言っていた愛情表現の一種という話に起因すると思われ、実際のところが唾液の齎す快感に打ち震える度に、その血は甘みを増して極上になる。とは言え色恋沙汰は固より男女間についても鈍いには、自分の身に何が起こっているのか把握しているかも怪しい。
 あの日の母の説明に、この点に関する疑問などがなかったことがいい証拠だ。

 息を殺して波が落ち着くのをじっと待つと同じく、蔵ノ介も男としての性を抑えようと努めて息を殺す。
 普通ならどんな拷問、生殺しかという状況だが、血を得たばかりということもあり、今の蔵ノ介には本能的な衝動とは別に心理的な充足感がある。――― 他の誰でもない。“”が、こんな自分を受け入れてくれているから。
 今回の吸血も嫉妬からくる身勝手な衝動だというのに、奇跡の適合者であるという責任だけではなく、本人が言ったように“蔵ノ介は蔵ノ介”だから。



 の呼吸が落ち着いて来たのを見計らい、蔵ノ介は呼び掛ける。
 今度は何の制止もなかったが返事をする気力までは回復していないのか、ゆっくりと顔を上げることで応えたの瞳は、快感の余韻に濡れていた。あの夜、か細く震えた声で自分を呼び、酷く劣情を掻き立てられたことを思い出す顔だ。だからつい、蔵ノ介は顔を近付けた。
 ただ向かった先はあの時とは違い、蔵ノ介はの濡れた目尻に軽く唇を押し付ける。反対の目尻にも同様に。

 くすぐったそうに身を捩るだけで抵抗まではしないに、少しの自惚れと甘い幸福が芽を出す。
 言葉に出来ない数々の感情が、こうすることでに少しでも伝わればいい。

 募る愛しさに、蔵ノ介はますます“”が欲しくて、堪らなくなった。


ただ、が欲しい。
(身も心も、魂までもが君を欲する。)
ただ、君が欲しい。*110926