「ほなちゃん、クーちゃんのことよろしく頼んだで!」

 親バカな両親が泊まり掛けで留守にするということで、必然的に白石家で世話になることとなったその日。
 身に付けていた曰く“ちゃん用”のエプロンを問答無用で外された挙句、部屋から半ば締め出される形となったわたしは、何か含みを感じる由香里の笑顔を最後に閉ざされた台所と廊下を仕切る戸を前に、しばし立ち尽くした。

 遡ること二十分ほど前。いつもより早い蔵ノ介の帰宅を出迎えた際、その顔色がまるで死人のように蒼白かったことに端を発するこの状況。
 心配のあまり夕飯の支度を手伝う手許の注意力が散漫になっていたわたしと、そんなわたしの気持ちを見抜いた小母様の会話を、隣の居間でテレビを見ていたはずの由香里が一体どこから聞いていたのかはわからない。わからないが、何という手際の良さだ。後ろ結びで死角だったとはいえ、わたしの背中を押しながら紐を解いていたとは。全く気付かなかったぞ。
 そんな技術の高さに感心するような、必要性を感じない器用さに呆れるような。図らずもその向上要因となっている身としては複雑な心境だ。

 思わずため息を一つ零し、わたしは閉ざされた戸に背を向けた。
 こうなっては大人しく従う他ない。何より蔵ノ介のことが気になっているのも事実なため、抵抗する理由がない。

 勝手知ったる他人様の家で迷いなく足を動かし、二階に上がる。そして目的の部屋の扉を叩いた。

「蔵ノ介?」

 けれども中からは応答どころか物音一つ得られない。静か過ぎる。もしかしたら寝てしまっているのかもしれない。
 先輩方を押し退けてテニス部の部長に就任した責任か重圧か、部活動後も一人残って練習に励み、肉体的な疲労も精神的な疲労も蓄積させるばかりの蔵ノ介のことだ。その可能性は充分に在り得、ならばこのままそっと寝かせておいてやりたい。
 しかしながら、あの顔色の悪さを思い出せば、そう簡単に引き返す訳にもいかない。
 想像したくないが、あれでは最悪の可能性も考えられる。

「蔵ノ介、入るよ?」

 本当に寝ている場合を考え、念の為潜めた声量で一声掛ける。
 なるべく静かに扉を押し開けると、まずその暗さが目に付いた。電気の点いていない部屋はカーテンが開いており、しかし射し込む光りがないため、暗いことに変わりはない。仕方なしに廊下の明かりを頼りに室内を伺うと、ベッドはもぬけの殻だった。

「蔵ノ介、居ないの……?」

 帰宅後部屋に籠もり、特に出て行く音などは聞いていないはずなのだが。
 室内に一歩踏み込み、今一度室内を見回す。――― と、ベッドとテーブルの間で何かが動いた。

「蔵ノ介!?」

 暗くとも見間違わない姿に、わたしは慌てて駆け寄った。最悪の想定が現実になる。
 テニスバックを置いた後、ベッドへ至る前に力尽きたのか、蔵ノ介は制服の胸元を跡が残るほど強く握り蹲っていた。痛みを堪えるように押し殺された呻き声は伴って呼吸を浅くし、正に絶え絶えだ。
 一先ず上を向かせようと肩に手を乗せた瞬間、蔵ノ介の身体がびくりと震える。それでようやくわたしの存在に気付いたのか、ほんの僅かに、顔が見えるほどではないが蔵ノ介の上体が浮いて頭が傾き、わたしの方を見ようとしていることがわかった。支えるために腕の力を強める。

、……?」
「ああ、そうだ。しっかりしろ、今小母様を」
「――― あかん」

 荒い呼吸に掠れた声で蔵ノ介はわたしの名を口にし、人を呼びに行こうとしたわたしを引き止めた。しかしそんなこと、聞き入れる訳にはいかない無理な注文だ。
 原因不明の状態に、不安になる気持ちはわかる。だが原因が不明だからこそ、事は一刻を争う恐れがあるのだ。わたしは構わずに一旦この場を離れようとし、けれどもやはり引き止められた。

「行く、な……」
「っ、……蔵ノ介?」

 肩から離れようとした手を掴まれる。
 自力では上体を支えることも難しそうな人間の力とは思えないほど、強い力でだ。

 蔵ノ介は俯けていた顔を徐に上げる。しかし部屋が暗いため、その表情は固より、今の顔色も判別できない。
 だがその時、カーテンの開いている窓から光りが差し込んだ。電気ほど明るくはないが、室内の様子を知るには充分な光りだ。どうやら今夜は満月らしい。今までは雲に隠れていたのだろう。
 そうして照らし出された光景に、わたしはようやく蔵ノ介の姿を認識することができた。

「く、らの、す、け……?」

 明らかになった視線が重なる。
 そして今度は、わたしの声が掠れた。

 元から蒼白い月明かりに照らされているとは言え、まるで死人のように血の気が失せた肌。
 髪色と同様に色素が薄い見慣れた色合いからは程遠い、血のように赤い妖しい光りを宿した瞳。
 荒い呼吸を繰り返す唇の陰に覗く、牙のように鋭く伸びた歯。

 ――― 頭の中が真っ白になった。

 気付けば床に押し倒され、掴まれている手を握り直されて指を絡められていた。
 天井を背に見下ろしてくる蔵ノ介の存在に、けれども抵抗する気は起きず。寧ろこの状態を当然とさえ思った。空いている反対の手に頬を包まれ、流れるように首筋を撫でられても、こそばゆさに身じろぎするだけに終わる。すべてがどこか別の次元で起きている出来事のように遠く、他人事のように感じた。

 そんなわたしの様子に、蔵ノ介は小さく妖艶に笑んだ。

……」

 指通りのいい髪が、掠れた声が、熱い吐息が、頬を撫でる。
 首筋を彷徨っていた手がいつの間にか襟周りを寛げて肩まで肌を露出させ、そこに熱く湿り少しザラツいたものが ――― 蔵ノ介の舌が触れ、舐められる。一度と言わず二度三度と、まるで唾液を塗り込むかのように何度も。

「っん、や……」
「……すまん」

 そんな未知の体験に身体が震えた。
 蔵ノ介は謝罪を口にしながらも行為を止めようとはせずに、わたしを宥めるかのように時折肌を吸い上げる。

 すると急激に、くすぐったさとは何か別の、疼きに似た熱が身体の奥から迫り上がって来る感覚がした。病気による発熱とは明らかに異なる類いのものだ。
 蔵ノ介の舌が触れる度にそれは強まり、意図せず嬌声に等しい喘ぎが零れる。――― そんなわたしを、わたしは知らない。まるで自分が自分ではなくなっていくかのようだ。堪らなく恐怖を覚える。だから空いている手で縋るように蔵ノ介の服を掴んだ。
 すると蔵ノ介はその手を優しく解き、反対の手と同様に指を絡めて握ると、共に床へ縫い付けた。親指の腹に手の甲を撫でられ、それだけで背筋が震える。恐怖ではなく快感にだ。
 馬乗りに覆い被さる蔵ノ介の存在にも筆舌に尽くし難い快感が込み上げ、喘ぎ声として形になる。

 着ている服が肌に触れる感覚にすら身体が疼いた。
 気持ちいいのに苦しくて、苦しいのに気持ちいい。頭がおかしくなりそうだ。

 その時、首とも肩とも言えない場所に、唇でも舌でもない堅く尖った何かが触れた。
 それが犬歯のように尖っていた蔵ノ介の歯だと気付く前に、尖頭せんとうは皮膚を突き破り体内に侵入した。しかし不思議と痛みはなく、寧ろより一層快感が強まる。

「っ、……ぁ、…………だ、め……」

 脳味噌が砂糖漬けにでもされたかのように思考は溶け、気が狂い掛ける。
 そのまま流されてしまいそうな意識を僅かに残った理性で繋ぎ止めようとしても、裏腹に身体は更なる快感を求めて疼いた。

 ――― もう駄目だ。流される。

 そう思った時、身体から異物感が消えた。お陰で意識が戻る。
 しかしその分、労るように傷口を舐められることで受ける快感が拷問に思えた。理性的な自分がこの時ばかりは恨めしくなる。

「……

 やがて首筋にあった蔵ノ介の気配が離れ、先程に比べ落ち着いた声音で名を呼ばれる。朦朧とした意識ながら引き寄せられるように目を向けた。
 しかし未知の快感に散々揉まれた挙句、原因と思しき蔵ノ介の舌が離れた今も疼きが止まない身体は思うように動かず、瞳には生理的な涙が滲んでいた。意識と同様に朧気な視界では曖昧な輪郭でしか蔵ノ介の姿を認識できず、その表情を知ることはかなわない。

「くらのすけ……」

 それが妙に不安を誘い、その存在を確かめたくて思うように回らない舌を叱咤して蔵ノ介の名を呼ぶと、息を呑む音が聞こえた。
 そして、月明かりに照らされる影がそっと近付き ―――

「ちょっと二人共! さっきからご飯できたて何度も呼ん、ど、る……」

 わたしが部屋へ入った時に半開きになった扉が乱暴に開き、由香里の声がした。
 すると月よりも強い廊下からの明かりと目の鼻の先という間近まで迫った距離により、ようやく蔵ノ介の姿を認めることができた。
 赤味が戻った顔色の、見慣れている色素が薄い瞳を持つ蔵ノ介だ。

 そう安堵したのを最後に、わたしの意識は途切れた。
110819