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 それは小学校の卒業式を終えてから一週間も経たない、三月下旬のことだった。

 この日所用で朝から外出していた蔵ノ介は、昼過ぎになって帰宅し「ただいまー」と開けた玄関の土間に並んだ、見慣れない紳士用と婦人用の靴と赤い鼻緒が印象的な革草履を見て、首を傾げた。
 どうやら来客中らしい。一体誰だろう。
 いつになく綺麗な玄関に触発され、脱いだスニーカーを見慣れた家族の靴と一緒に端へ寄せて並べた蔵ノ介は、その時後方から聞こえた戸が開く音に振り仰いだ。リビングの戸を開けて顔を出す母親と目が合う。

「おかえり、クー。ええところに帰ったわ、手洗ったらすぐにリビングに来ぃや」
「……おん」

 早よしぃよ、と母親がリビングに引っ込むと蔵ノ介は立ち上がった。
 廊下とリビングを繋ぐ戸には大きなガラス窓があるが、明かりしか通さない不透明なガラスのため中の様子はわからない。漏れ聞こえる声から、母親だけではなく姉も中にいるとわかるのが精々だ。父親は仕事だし、妹は留守らしい。

 先に自室へジャケットとマフラーを置きに行き、それから洗面所へ向かう。手洗いとうがいを済ませた蔵ノ介は洗面台の鏡を覗いた。来客中にわざわざ呼び付けるのだから、恐らく来客に自分を紹介するつもりなのだろう。

 身嗜みを整えてからリビングの戸の前に立った蔵ノ介は逡巡し、木枠の部分を軽く叩いた。それからノブを回す。
 リビングには母親と姉の他に、玄関の履き物の数と同じ、三人の見知らぬ人間がいた。三人の子持ちとは思えない母と同様に若々しい外見で、更には気品を漂わす夫婦だろう男女と、その間に挟まれて座る蔵ノ介と同い年くらいの女の子だ。
 洋服である両親に対し彼女は和服姿で、白石家の玄関には異色の革草履を履いてきた人間だとすぐにわかった。
 鼻緒と同じ赤が基調の着物には金糸で繊細な模様が描かれ、彼女の肩を過ぎた長さの艶やかな黒髪とその面立ちが日本人形を髣髴とさせて、よく似合っている。蔵ノ介は率直に綺麗だと思った。

「クー! そないなとこ突っ立っとらんで、こっちに来て挨拶しや」
「! お、おん!」

 母親に呼ばれはっとし、慌てて五人が集まるソファーに近付くと、にやにや笑う姉と目が合う。
 人をからかって遊ぶ時に見せる類いの笑みだ。少女に見惚れていたことがバレていると気付き、蔵ノ介は姉からすぐに目を逸らした。後で遊ばれること必至である。

「白石蔵ノ介です、はじめまして」
「はじめまして、蔵ノ介くん。隣に越してきたと言います」

 軽く頭を下げて自己紹介した蔵ノ介に応えたのは、少女の左側に座る男性だった。
 蔵ノ介は目の前の三人が空き家だった隣に引っ越してきたことよりも、男性の言葉が標準語だったことに驚いた。生で聞くのは生まれて初めてかもしれない。

「それから妻と、この子は一人娘の。この春から蔵ノ介くんと同じ学校に通う一年生だ、仲良くしてやって欲しい」
「は、はい……」

 友好的な台詞であるが、大阪弁よりずっと畏まった、硬い印象を与える言葉遣いだからだろうか。
 その発言内容とは裏腹なプレッシャーを蔵ノ介は感じ、一見して人当たりがよさそうな男性の笑顔に、「娘に手ぇ出したらただじゃおかねぇ」とか、そんな言葉が書かれているように見えた。

「――― 父さん」

 だがそれは、ふと聞こえた静かな声によって一瞬で霧散した。
 振り返る男性の視線を追えば、隣に座る娘が厳しい面立ちで父親を見つめ、緩く首を振った。するとどうだろう。男性は見る見るうちに肩を落としてしょんぼりし、今し方までの威厳が見る影もなくなった。
 赤の他人には全く理解が及ばないやり取りだったが、ひょっとしたらこの人、物凄い親バカなのかもしれない。
 子供相手にプレッシャー掛けて来たし、娘に睨まれて落ち込むって、絶対にそうだろう。

「ごめんなさいね、この人ったら娘のことになると見境がなくなって……」
「はあ……、いや大丈夫です」
「ありがとう。ほら、あなたもご挨拶しなさい」

 苦笑する母親に促された彼女 ――― の視線が、父親から蔵ノ介へと移った。

 すると父親を窘める厳しい眼差しから一転、すっと色を変えたその静かな瞳と目が合った瞬間、蔵ノ介は反射的に背筋を伸ばした。眼差しと共に一変した彼女の纏う空気がそうさせたのだ。
 決して強制的ではないのに従わずにはいられない、柔らかくこちらの自発性を促す、不思議な力を感じる瞳だった。

 浅く頭を上げてから、彼女は口を開いた。

「御初に御目に掛かる。わたしはと申す。先程は父が無礼を働き誠に申し訳なかった」

 そう言った彼女は改めて、今度は更に深く頭を下げた。今にも土下座をしそうな勢いだ。
 彼女の行動もだが、それ以上に蔵ノ介は、彼女の発言 ――― 口調に驚いた。日本人形のような出で立ちで、言葉遣いが時代劇掛かってるって、何そのギャップ。

「…………あ、や、ほんまに大丈夫なんで……」
「かたじけない。貴殿の広量に痛み入る」
「は、はあ……」

 衝撃のあまり反応が鈍る蔵ノ介。
 こちらの戸惑いに気付いていないのか。いや恐らく気付いていないんだろうが、は再び頭を下げるとそこで初めて表情を緩めた。――― また、今度は雰囲気が一変した。浮かんだのは“笑顔”と言うより“微笑”と表現すべき表情だった。

「改めてよろしく頼む」
「お、おん。よろしゅう……」

 だが表情の柔らかさに反して、その口調はまるで男のように硬かった。

 これは後に知ったことだが、の口調はが男に囲まれて育ったことと、本人が尊敬して止まない人物が厳格で、昔ながらのお堅い人である影響らしい。
 夫に負けず劣らず、実は親バカであるの母親が嘆くように漏らしていたという、主婦同士すぐに打ち解けて茶飲み友達にまでなった蔵ノ介の母親経由の情報だ。初対面の人によく誤解されるほど男勝りだった服装や髪型はともかく、こればかりはいくら注意しても直らないらしい。

 ――― そんなとの出逢いは、蔵ノ介にとってあらゆる意味で衝撃的だった。


「蔵ノ介?」

 呼び掛けと共に触れた手が、額に掛かる前髪をそっと払い、そのまま流れ作業のように髪を梳く。
 どうやら夢を見ていたらしい。
 閉じていた瞼をそっと開いた蔵ノ介の視界にまず飛び込んで来たのは、出逢った頃よりも伸びた髪を簪一本で器用にも綺麗に結い上げ、あの時とはまた別の赤が基調となった着物を纏うの姿だった。

「本格的に寝るなら、自宅のベッドに行くことをお勧めする」
「……アホ、そないしたらペナルティにならんやろ」
「そもそも前から疑問だったのだが、膝枕はペナルティに値するのか?」

 長時間させられて足が痺れでもすれば、確かにそれはペナルティに値するだろう。
 しかしは幼い頃から正座には慣れっこだし、その上今は高さ調整のため横座りで、痺れるなんてことは早々ない。

「俺が膝の上おって自由利かんし、動きが制限されるんやから、充分ペナルティやろ。それより口調、またなってんで」
「……蔵ノ介はいちいち細か過ぎる」
「折角そない綺麗な格好しとるのに、言葉遣いで台無しとかガッカリやろ」
「……別に普段通りの格好だ、けど」

 ギリギリのところで言い足して事なきを得たに、蔵ノ介は笑った。
 の言う通り、は自宅では基本的に着物で過ごす。これもまた尊敬して止まない人物の影響だそうだ。

 そもそもペナルティなんてものは、蔵ノ介にとって単なる口実にしか過ぎない。
 ――― 好きな女に触れたいと思う、ごく自然で、ごく当たり前の欲求。
 男に囲まれて育ったがために男女間についてこれでもかというほど鈍いに、気付いて欲しいような欲しくないような複雑な心境だが、この口実があって初めて、蔵ノ介はの隣にいられるだけの勇気が持てるのだ。


「……左手だね」
「知っとるし、そういうこととちゃうわ。ペナルティに手繋いとって」

 包帯を解いた手を揺らして主張する蔵ノ介にはため息する。
 きっと膝枕の件と同様にどこがペナルティなのかと思っているに違いない。だが先にも述べた通り、ペナルティとは蔵ノ介がに触れるための口実であり、自分がにとって身近な人間であるという証明なのだ。実際の罰則と違って当然である。

 黙って握られた手に、蔵ノ介は口許を綻ばせた。
 だけど少し不満で、自身の心臓の上での手を下にし、包み込むように握り直して満足する。ため息が聞こえた。

「おやすみ、蔵ノ介」

 だが続いた言葉は柔らかかった。先程はベッドへ行くことを勧めたのに、今はもうここでの睡眠を促す矛盾に、蔵ノ介は内心噴き出した。流石はだ。
 そして優しく頭を撫でるその手の心地良さに、蔵ノ介は思い出す。

 自分がを好きになったのは、この手の温もりがきっかけだったということを。


そして、また、僕は君にをする。

100126


傍観者を望む設定で白石との出逢い。白石の恋の過程。
本編と主人公の性格故に、全体的に坦々とした内容になってしまいました。
大体こんなものだったんだな、ぐらいに思ってもらえれば幸いです。重要なのは白石の主人公に対する第一印象及び、口を開いた時の現実とのギャップです。
恋の過程については最後に少し触れただけですが、ある意味では一目惚れであり、徐々にというよりじわじわと、気付いた時には、そのいずれも当て嵌るものです。詳しいことは本編で書くつもりなので、今のところは大目に見てください。
それと主人公が引っ越して来る前についての設定ですが、考えているものがあるので本編で活かしていくつもりです。
それでは蜜柑さま、リクエスト誠にありがとうございました!