その後も時間は賑やかに過ぎて行った。
 気付けば最後に覚えているよりも陽は傾き、室内には影が増えていた。明かりを灯せば皆も時間の経過に気付いたのか、それぞれ外の様子や時間を確認して夜の訪れを察した。
 夏の夕暮れだ、陽が長いのでつい勘違いしがちになるが、時刻は間もなく七時を迎えようとしている。残暑を迎えているとはいえ空気にはまだ蒸し暑さがあったが、日が暮れかかっていることで日中よりは幾分マシに思えた。

「もうこんな時間か」

 呟く弦一郎の声どことなく寂しげで、わたしは黙って頷いた。
 だが時は刻一刻と流れる。一応はわたしもこの家では客人という扱いになるが、これだけの大人数の夕食を用意するのは簡単なことではない。いくら親戚一同の集まりや門下生たちによる泊まり込み合宿で慣れているとはいえ、それとこれとでは話が別だ。
 皆との時間が楽しくてつい失念していたが、急ぎ手伝いに向かうべく台所へ向かおうとしたところ、風通りのため開け放たれていた廊下と繋がる戸から、幼い姿が顔を出した。

「左助か、どうした」

 弦一郎の兄の息子、つまり弦一郎にとっては甥にあたる子だった。
 時には弦一郎をからかって遊ぶ、真田の人間らしい豪胆さを持っているが、それでもまだ六歳の子供だ。これだけ沢山の見ず知らずの人間が集まる環境に怖気付いているのか、左助は何も言わずにわたしの腰に抱き付いて来た。
 宥めるように頭を撫でてやり、視線を合わせて膝を折る。こんな調子だ、自ら進んでやって来たわけではないと察しが付いたため「どうした?」もう一度、焦ることはないと静かに用件を促す。

「ばーちゃんが、夕飯までもう少し時間がかかるから、先におふろに行ってきなさいって……」
「そうか、伝えに来てくれてありがとう」

 弦一郎に目をやると、心得たといった様子で首肯が返る。

「聞いた通りだ。お前たち、我々は先に風呂へ行くぞ」
「行くって、この大所帯でか? 真田の家って、家だけやのうて風呂まで広いん?」
「いや、流石に湯船は大人三人入るのが限界だ。故に、ここから歩いて十分もしない場所にある銭湯へ向かう」

 邸に来た際、家の広さに驚いていた忍足がまさかと言った様子で訊ねて来たが、流石に二十人以上がまとまって入れるほど浴室は広くない。
 弦一郎は大人と言ったが、中学生の割に体格の立派な者が多いため、彼らもまた三人ずつ入るのが限界だろう。だがそれでは全員が入浴を終えるのに時間が掛かり過ぎるため、合宿時にもそうするように銭湯へ行く、という選択になるわけだ。
 同じように、大会終了後こちらへ直行したジャージ姿の彼らに着替えの用意があるはずもないため、甚平や浴衣を貸し出す。替えの下着については、そこまでしてくれなくていいと頬を染めた何人かに止められたため、彼ら自身に任せるとしよう。

ねーちゃん」

 一通りの支度を終え、皆が出発しようという段になった時だ。左助に服の裾を引かれた。

「どうした?」
「ふろ、いっしょに入ろう。おれねーちゃんに頭洗ってもらいたい。ひいじーちゃんたちがねーちゃんどくせんするから、けっきょくおれ、ねーちゃんとぜんぜん遊べなかったし……」

 拗ねたように、と言うより、実際拗ねているのだろう。唇を尖らせた左助の言葉は事実であり、いつもであれば入浴や就寝を共にして構っているところだが、今回は一度もそういったことが出来てはいなかった。運と間が悪かったのだ。
 だがそんな言い訳、六歳の子供に通じるはずもない。わたし自身そんな言い訳をしたくはなかったし、本人から訴えられては後ろめたさが沸き立つ。けれど弦一郎たちが銭湯へ行っている間、わたしは小母様の手伝いに行こうとしていただけに、どうしたものか。
 手伝いを終えた後、つまり夕飯の片付けまで終えた後で一緒に風呂に入るのでは、左助の就寝時間が遅くなってしまう。それでは幼い子供には酷な話だ。そもそも、あまり遅くなるようでは、わたし自身が眠気に耐えていられるかがわからない。

「入ってやればいいだろう。左助に伝言役を頼んだということは、母もそのつもりだったはずだ」

 すると、弦一郎が左助の願いを後押しするように言った。
 二人の顔を何度か交互に見て、わたしは頷いた。恐らく弦一郎の言う通りだろうと思ったからだ。

「わかったよ、一緒に入ろう」
「いやったー!!」
「えええっ、ずっこい! ワイも姉ちゃんと一緒に風呂入りたい!!」

 何をそれほど喜ぶことがあるのか、万歳までする左助の歓声に反応して、他方から声が上がった。

「―――――」
「なっ、なななななな……!!?」
「ははっ、金ちゃんは欲望に忠実やねー」
「いや、流石に笑い事やないで、千歳はん」
「師範の言う通りや! 金ちゃんは何を言うとんねん!?」
「自分アホか!? いやアホやろ!!」
「アカン!! それだけは絶対にアカン!!!」
「えー! せやかて、そいつだけずっこいやん」
「ズルくてもアカン! アカンことが世の中にはあんねんで!!」
「いや、わたしは別に構わんぞ」

 金太郎の発言の直後、蔵ノ介は石のように固まり、一氏はそれしか言葉を知らないのではと疑いたくなるほど無意味に「な」の音を連呼し、何故か愉快そうに笑った千歳は石田にそっと嗜められ、石田に同調した小石川は頭を抱えた。一方で財前は一氏に対するかのように「アホ」を連呼し、忍足は「アカン」を連呼する。だが金太郎は彼らの様子を意に介した様子もなく唇を尖らせた。
 これを今度は小春が何か諭そうとしていたが、当事者のわたしとしても、彼らが何を詰まっているのかがわからない。ほんの数か月前まで小学生だったそれらしく、金太郎の体格は今この場にいる面々の中では左助に次いで小柄だ。浴室の広さ的に何ら問題はない。
 そう思って請け負った途端、何故か水を打ったような静寂が訪れた。一体何なのだ。

 兎も角、早いところ入浴を済ませて小母様の手伝いに向かわなくては。

「左助。わたしは支度をしてから向かう。だから代わりに、風呂場までの案内役を頼めるか?」
「うん! にーちゃん、こっち!」
「おう! 行くでコシマエ!!」
「――― はああああっ!!?」

 最初に見せていた怖気など影も形もなく鷹揚に頷いた左助は、金太郎を手招きして廊下を駆け出した。
 元気に応じた金太郎は途中、国光や周助の後輩で、先日興奮気味に語っていたコシマエこと越前リョーマの腕を掴む。完全なる蚊帳の外で我関せずでいたところを突如渦中に連れ込まれた越前は驚愕し、必死に抵抗していたが、その身体からは想像もつかない金太郎の怪力に抗えるはずがない。抵抗虚しく引き摺られて行った。
 流石にこれにはわたしも少々驚いたが、金太郎と同じ体格の人間が一人増えたところで問題はない。

「では弦一郎、そちらの案内は頼んだ」
「ああ、も左助のことを頼む」

 わたしと弦一郎は互いの役目を確認し合って頷き、それぞれ動き出した。
 そして宿泊先として間借りしている客室へ着替え等の支度をしに向かう途中、立ち去った方向から複数の悲鳴のようなものが聞こえたが、弦一郎がいるのだから何ら問題はなかろう。
 それより左助たちを待たせてはいけないと、わたしは足を速めた。
過剰な庇護の代償*150720