「駄目だなぁ……」

 肩口に埋められていた熱がしばらくして確かにそう零し、徐に離れる。
 併せて身体全体を覆っていた熱もまた離れ、けれども途中に熱く柔らかい何かが頬を掠めた。その背を宥め賺していた手を止めて反射的にそちらを見れば、赤く目を腫らし、悪戯っ子のように笑う周助の顔が間近にあった。屋外の部活動に所属しているとはいえ、日焼けを知らず固より白い肌には痛々しい色合いだ。
 頬に残る筋を拭い取ってやろうと手を伸ばしたが、流石にそこまではといった風情でやんわりと断られる。

「あーあ。試合に勝って、青学が優勝できたらくん伝えたいことがあったのに……」
「伝えたいこと? 別に、何か言いたいことがあるのならいつでも聞くぞ」
「うん、くんならそう言うのはわかってたけど、それじゃ意味がないんだ。男ならやっぱり格好良く決めたいしね」

 周助の言い回しはわたしには要領を得ないものだったが、周助本人が言い時というものを定めているのなら、無理に聞き出すのは不粋というものだ。
 一先ず納得すると周助は何故か「ありがとう」と口にし、はにかむように笑って、わたしに向かい右手を伸ばした。先日と似た動きはわたしの頬か髪か、それとも頬にも髪にも触れようとしたのだろうか。わたしの背後から伸びた包帯の巻かれる左手に腕を掴まれたことで動作を阻まれたため、察するしかないが。
 誰のものか確認するまでもない特徴的な左手をたどって振り仰ぐと、案の定そこには蔵ノ介の姿があった。
 何やら難しい顔をして、間に挟まれる形になっているわたしには目もくれずに周助を凝視している。

 声を掛け難い雰囲気に戸惑っていると、それに気が付いたのか蔵ノ介はふとわたしに視線を落とし、苦笑を見せた。

「話の邪魔してすまへんな。せやけど、あっちで真田クンらがどうしたらええんか困っとるで?」
「え? ……あ」

 示された方を見れば、そちらには確かに顰めっ面の弦一郎を始めとした立海大の面々の姿があった。
 そして何故か、振り向いたわたしの動きと反比例して何人かが顔を背けた。仁王に至っては茹で蛸の如く紅潮した顔で餌を欲しがる魚のように口を開閉させている。一体どうしたのだろうか。

 そうこうしている内に弦一郎たちはこちらにやって来て、精市が自身を負かした一年生選手に声を掛けたのを始め、各々が自由に会話をし出した。
 四天宝寺を含め勝者と敗者という立場上あまり和気藹々と言える雰囲気ではないが、それでも熾烈な戦いを繰り広げた者同士とは思えないやり取りだ。……自分たちを負かした相手の文字通り尻を追い掛け回す小春については、何とも度し難いため敢えて考えないことするが。先程と一転していつもの台詞を叫ぶ一氏もまた。
 そんな中、弦一郎は真っ直ぐわたしの許へ足を向けた。わたしも蔵ノ介と周助の間を抜けて弦一郎に歩み寄る。そして互いが手を伸ばせば触れられるところまで距離を詰め、立ち止まった。

 その距離になって、弦一郎は足取りと同じく真っ直ぐわたしに向けていた目を逸らした。
 見るからに居心地悪く気まずそうにし、第一声を言いあぐねいている有り様に、頭が冷えていく感覚がした。思わずこちらから口火を切る。

には最高の試合を観てもらいたい。……先日、自分がそう言ったのを憶えているか?」
「……ああ。憶えている」
「では曰く“最高の試合”を観た感想を言わせてもらう。――― 失望したよ、弦一郎」

 告げた瞬間、正面からだけではなく他方からも息を呑む音が聞こえた。
 随分はっきり聞こえたと思えば、いつの間にか周囲の会話が止んでいる。皆がわたしたちに注目していた。

「弦一郎たちが何故勝利に固執するのか、部外者のわたしにはわからない。理解できるとも思わん。その上で個人的な感情に則って言わせてもらえば、国光とのあの試合、弦一郎が真っ向勝負を捨てたことがわたしには赦し難い」

 そう一歩踏み出すと、弦一郎の肩が跳ねたのが見て取れた。
 反射的であろう。後退りしようとした動きを目で以て制する。また肩を跳ねさせた弦一郎は素直に従った。

「剣道一筋だった弦一郎が突然テニスをしたいと言い出した日を、わたしは今でも昨日のことのように憶えている。それだけ衝撃的だった。裏切られた気さえした」

 本当に唐突だった。つい前日まで竹刀を交えていた兄弟弟子が、翌日には剣道とは似ても似つかない競技を始めたいと言い出したのだから。
 そのきっかけが何であったのかは、わたしにはわからないし、知らない。
 事実を受け入れられなかった当時のわたしは、ひたすら弦一郎を避けていたから。訊く機会を逃してそれきりだ。

「だが剣道よりもずっとテニスに魅了されている弦一郎の様子に、思いを改めた。すぐに受け入れることは出来なかったが、弦一郎が夢中になれるものを見つけることが出来たのなら、それでもいいと思ったのだ。――― けれど、今の弦一郎にあの頃の面影など微塵もない。あんな姿を見せられるくらいなら無理矢理にでも引き戻せば良かったと、今のわたしは大いに後悔している」

 更に一歩踏み出すと、一方が手を伸ばせば届く位置に距離が縮まる。今度は弦一郎も逃げようとはしなかった。

「わたしが知る弦一郎は、結果よりもそこへ至る過程を大事にする人間のはず」
「……」
「それとも勝利という結果は、弦一郎の人となりを変え、信念を曲げてまで得る価値のあるものなのか?」

 問いに、弦一郎は瞑目する。
 しばしの沈黙が降り、やがて顔を上げた弦一郎の瞳に最早揺らぎはない。

「“勝敗ではない。重要なのは何を感じ、何を思うか。”だったな。……そんな気持ち、すっかり忘れてしまっていた」

 自嘲に聞こえる言葉だ。しかし憑き物が落ちたかのような晴れ晴れさも覚える。
 すると、弦一郎はわたしから周助を追って来た青春学園勢へ、国光へと向き直った。
 先日の盗み聞きに参加していた頬に絆創膏を貼った選手を始め、何人かがこれに身構えたようだが、対する国光は相変わらずと言うか何と言うか。動じるどころかただ不思議そうに首を傾げている。

「……手塚」
「何だ?」
「近い内にもう一度、俺と個人的に試合をして欲しい」

 えっ、と零したのが誰かはわからない。きっと誰とも特定出来ない、複数の驚きだろう。
 一方で当事者の国光はきょとんとした反応で、ややあって微かに口角を緩める。

「ああ、喜んで。俺の方からも、個人的に頼む」

 瞬間、頬に絆創膏を貼る選手が「て、手塚が笑った……!」と何とも失礼なことを言っていた。
まほろばを求む*120416