八月二十三日。 歓声に、アリーナ全体が震えた。 自らの試合後、弦一郎たち仲間の許へは戻らずに観客席の後方にいたわたしの隣へやって来た仁王を見れば、彼は正に茫然自失。言葉を失って固まっていた。 けれどもそれは仁王に限ったものではない。コートに張られたネットの延長線を境に二分された観客席の片一方 ――― 弦一郎たち立海大附属を応援していた自校の応援団や観客もまた言葉を失い、対面する観客席とはまるで対照的である異様な静けさに包まれていた。 だが、それは道理と言えよう。 自他共に認める王者を名乗り、一種の傲慢と言える自信に満ちていた彼らにとって勝利こそが唯一絶対であることは、部外者であり、彼らの事情を何一つ知らない無知なわたしにすらも明らかだった。 そんな彼らが負けた。負けたのだ。 最終戦にまで縺れ込んだ試合の果て、国光たち青春学園に。 勝敗に重点を置く彼らを真っ向から否定する、テニスは楽しいものだと言い切った少年に。 ――― 負けたのだ。 「仁王」 呼び掛けると、仁王ははっと息を呑み、弾かれたようにわたしを振り返った。 動揺に揺れる瞳で一体何を言おうとしたのか、何度か開閉を繰り返した唇は結局真一文字に結ばれて、仁王は俯く。跳ね気味の髪型が、彼の心中を物語るように今は心なしか勢いを失って見えた。 その頭を撫でて慰めや同情を口にするのは簡単だ。しかし、それは何か違う気がして、わたしは今にも伸びそうになる手を堪えた。 「……間もなく閉会式だろう。そろそろ戻った方がいい」 間を置いて、仁王は小さく頷く。 「それから、行きに別れた出入口で落ち合おうと、弦一郎に言伝を頼めるか?」 「……ん」 「ありがとう」 ちらりと視線だけ上げてわたしを窺った仁王はすぐ目を伏せ、小さくまた頷くと緩慢に立ち上がった。 コートへと向かうその背が弦一郎たちと合流するまで見送り、わたしはそっと息を吐いた。背の低い背凭れへ中途半端に背中を預け、目を閉じる。 蘇るのは、この決勝戦の第一試合。犬猿とも言える祖父同士の因果か、それともまた別の作用なのか。まさかこのような形で目にすることになろうとは思ってもみなかった、弦一郎と国光の対峙。その戦いは無知なわたしでさえも圧倒し、手に汗を握り、息を呑むものであった。 けれども故に、わたしの中には一つの 恐らく当人はわたしよりも遥かにそう感じていることだろう。……否、感じていて欲しい。 優勝旗に楯や記章の授与、開催者側からの表彰や閉会の言葉と、その後大会は恙無く終了した。試合の興奮や緊張に対して何とも呆気ない幕切れだったように思う。 そして同様に、閉会式が済めばあの立海が負けただとか今年の青学は凄いだとか、誰も彼もが口々にして続々と会場を後にして行く。人の多さから多少時間は掛かったが、それでもあっという間と言えるほどの時間で観客の多くが捌け、あれだけの熱気に包まれていた会場が一転して物寂しさに満ちた。残っているのは決勝戦を戦った両校の応援団、並びに試合には出られなかったテニス部員くらいなものだ。 特に立海大の彼らは悔し涙に濡れていたり、未だ現実を受け入れられないのか茫然自失していたりと、正気を取り戻すにはまだ当分掛かりそうである。 また彼らでさえあの様子なのだから、直接戦いに臨んだ弦一郎たちの心情は計り知れない。知れるはずもない。 しばらくしてようやく彼らが解散の支度を始めたのを認めて、わたしは席を立った。 仁王に言伝を頼んだ通り、今朝もまた弦一郎たちと会場入りした際に別れたアリーナの出入口へと向かう。 「」 しかし、現れたのは蔵ノ介たち四天宝寺の面々だった。 準決勝から決勝までの三日間でそれぞれ気持ちに整理を付けられたのか、蔵ノ介以外は三日振りに見る彼らの表情に敗北当初の影は見られない。寧ろ先程授与されたばかりの記章を首に下げ、誇らしげですらある。 「見てや姉ちゃん! 金ピカのメダルもろたでメダル!!」 「ああ……よかったな。おめでとう」 例の如く抱き付いて来た金太郎が正にその通りで、見せ付けるように記章を突き出して来る。 頭を撫でて健闘を称えれば、金太郎は照れ臭そうに笑って胸元に顔を擦り寄せて来た。が、その襟首を掴んだ蔵ノ介の手によってすぐに引き剥がされる。何とも言えない悲鳴が聞こえたが、大丈夫だろうか。 「ところで、はこないなところで何しとるん?」 「あ、ああ。弦一郎たちを待っていたところだ」 眉間に深々と皺を刻んだ光に引き渡された金太郎の行く末と、先日と同様に何故か忍足に羽交い締めされて暴れる一氏の様子を気にしていると、視界を遮るように身体を割り込ませた蔵ノ介からそんなことを訊ねられた。 素直に答えれば、刹那、蔵ノ介は息を呑む。視線が逸らされ、ばつの悪そうな横顔が窺えた。 「……すまん」 「何故、蔵ノ介が謝る?」 「やって……」 「確かに弦一郎たちは負けた。努力が実を結ばなかったのは残念だが、その努力は弦一郎たちだけに限ったものではない。蔵ノ介たちも国光や周助たちもまた、尽くして来たものだ」 何より戦いに勝敗は付き物だ。勝者がいれば敗者がいる。 それは覆しようのない事実であり、避けようが現実だ。弦一郎たちの敗北だけが特別な訳ではない。 初戦であろうと決勝戦であろうと。勝ちは勝ち。負けは負けなのだから。 ――― それよりも、何より。 「くん!」 するとそこへ、またも待ち人とは別の人間が現れた。 呼ぶ者が限定されている呼称に振り返ると、案の定そこには周助の姿があった。 他にも国光は勿論、先日植え込みに隠れてわたしたちの会話を盗み聞きしていた面々や、優勝への決め手となる勝利を飾った一年生選手らの姿もある。 そして一人だけ先に駆け足でやって来た周助は、再会時のように、わたしの手前まで来たところで急に足を止めた。しかし“そわそわ”という擬音が聞こえてもおかしくない目に見える落ち着きのなさが、周助の本心を如実に物語っている。まるで大好物を前に「待て」をさせられている犬のようだ。 つまり、ここはわたしが「よし」と言ってやらねばならぬ場面なのだろう。 周助の正面に向き直り、期待に揺れるその瞳と視線を合わせる。本当に、「待て」をさせられている犬のようだ。 自分がそんな周助の“大好物”に値するのかは疑問だが、ここまで誰かに思われて悪い気はしない。寧ろ、くすぐったいぐらいだ。 「優勝おめでとう、周助」 思い起こせば泣き顔やそれに近い姿ばかりが記憶にあるのに。 今わたしの目の前にいる彼に、そんな当時の面影は影も形もない。それが少し、ほんの少しだけ、寂しいと思う。別れの日、声高に宣誓した彼には申し訳ないけれど。 だがそれ以上に嬉しいとも。微笑ましいとも。誇らしいとも。思うのだ。今の彼の姿が。 しかしそんな喜びも束の間、周助の瞳から次々に大粒の涙が零れ出した。 散々見慣れていた有り様とは言え、あまりに唐突だった上に久し振りで、流石にぎょっとする。そしてすぐに、こちらは苦笑が零れた。 「もう泣かないと、あの日誓っていただろうに。自ら言い出しておきながら反故にするのか?」 「ち、違うよ! これは、嬉し涙だから……そういうんじゃ、……な、いよ」 けれども周助の手は何かを堪えるように固く握られていて、わたしの苦笑はますます深まるざるを得ない。 「ならば、無理に我慢する必要はなかろう。――― おいで」 そう軽く腕を広げた次の瞬間、周助は弾かれたように勢いよく、わたしに抱き付いて来た。 再会時を髣髴とさせながらも、あの時のような縋るものではない。 だからと言って一つの思いに限定できるものでもない、万感の篭もった抱擁だった。 腕にたゆたい*120312
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