「シャワーだけになるけど、そのままでいるよりはいいし、入って来て。着替えとタオルは後で持って来るから」 そう言ったが廊下と脱衣所を仕切る引き戸を閉めて立ち去ると、蔵ノ介は息をついた。 単に呼吸しただけのつもりだったそれは思いの他重苦しいものになり、ほとんどため息も同然だった。だがこんな状況になれば、ため息の一つや二つ吐きたくもなる。 時には頑固とも言える芯を持ったの性格を把握し、が絶対に断らないと知った上で取り付けた今日の予定。 待ち合わせの際には、敵か味方か以前に愉快犯としか思えない姉と妹の策略に踊らされて、何とも心臓に悪い目に遭いはしたものの。その後の“の思い出巡りツアー”と銘ばかり打った自己満足に等しい行為は、それでも概ね順調だったのに。 まさか夕立に見舞われ、文字通り水を差されるとは。全く以てついてない。 (やっぱり俺、神様に嫌われとるんとちゃうか……?) なんて八つ当たり気味の思考を働かせたのが悪かったのか、直後に悪寒が走った。いくら今が残暑の時季とは言え、このままでは流石に風邪を引くかもしれない。 一先ずに言われた通りシャワーでも浴びて温まろうと、蔵ノ介は雨で濡れて肌に張り付く服を脱いだ。 風呂場は蔵ノ介の自宅の風呂より倍は広く、浴槽も同じだけ広かった。また浴槽の蓋や風呂桶、石鹸などの生活用品は一切見当たらず、が言っていた通りシャワーだけしか使えない風呂だ。しかしまるで生活感がないそんな環境にも関わらず、コックを捻ればちゃんとお湯が出るのだから不思議である。 (――― ん? ちゅうかこの家って、誰の家や?) と、蔵ノ介はここに来て今更な疑問に至った。 住宅地の真ん中にいる時に降り出され、雨宿りできるような場所がなければ土地鑑もない蔵ノ介はに手を引かれるままこの場所まで連れて来られて、脱衣所へと置いて行かれたのだ。当然蔵ノ介はここがどこか、誰の家か知る由もない。 表札は見ていない。そもそも見当たらなかったような気がする。けれど確か、は鞄から取り出したそれで、この家の鍵を開けていた。 おまけに脱衣所へ向かうの足取りには迷いがなく、着替えやタオルを用意できるということは、はこの家の内情を把握しているということだ。それはつまり、もしかしたら ―――。 「蔵ノ介? タオルと着替え、ここに置いておくよ。それと着ていた服は乾かすのに持って行くから」 「お、おお、ありがとさん ――― って、あかん!」 聞き捨てならない台詞を危うく了承し掛け、蔵ノ介は叫んだ。 振り返った風呂場のガラス戸に映る影が動きを止め、「蔵ノ介?」心底不思議そうにしていることに、蔵ノ介はため息を隠せない。にはシャワーの音に掻き消されて聞こえなかったようだが、はもっと、いろいろと自覚するべきだ。 「そのくらい自分でやるし、もう出るさかい。俺のことはええから、も次入る準備しとき」 「……わかった」 納得し兼ねるような声だったが、こればかりは蔵ノ介にも譲れない。 風呂に入るということは服を脱いで裸になるということだ。そして裸になるために脱ぐのは服ばかりではなく、脱いだ後に畳んだ服の間に隠したそれを見られることは、男に囲まれて育ったには気にならないのかもしれないが、蔵ノ介には気になるどころか恥でしかない。 が脱衣所を出たのを確認して浴室を出た蔵ノ介は用意されたタオルで身体を拭き、隠しておいたそれを履く。そして広げた紺色の生地の着替えは甚平だった。とは違い和装など七五三ぐらいでしか経験したことはないが、袖を通してみると案外着心地がいい。サイズも問題ない。 脱衣所を出た蔵ノ介は左右に続く廊下のどちらを行くか迷い、取り敢えずは一度通った道を戻った。随分広い、純日本建築の平屋と思われる家だ。 すると玄関を通り過ぎてすぐの部屋の障子が開いているのを見つけ、覗き込んで窺う。蔵ノ介がいる角隣の障子も開いており、庭に面するその縁側には浴衣に着替えたの姿があった。どうやら濡れた服を干していたところのようだ。 声を掛ける前にこちらに気付いたは蔵ノ介にも早く服を干すよう言い、縁側を歩いて奥へと消えてしまう。そして少し経って戻ったは、湯気が立つ二つの湯飲みを乗せたお盆を持っていた。 「はい、蔵ノ介。熱いから火傷に気を付けて」 「お、おう、ありがとさん。ちゅうかさっきも言うたけど、俺のことはええからもはよ風呂入って来ぃや」 「蔵ノ介のお陰でわたしは全然濡れていないから、大丈夫だよ」 言って、は自身の服の隣に干してある蔵ノ介の上着に目を向ける。 元の色からすっかり変色しているそれは夕立が降り出してすぐ、蔵ノ介が雨除けにとの頭に被せたものだ。 「それに蔵ノ介こそ、ちゃんと髪を乾かさないとお風呂に入った意味がないでしょう」 「ああ、せやな。……なあ、一つ訊きたいんやけど、もしかしてこの家って」 ――― 刹那、雷鳴が轟いた。 するとまた空が光り、稲光から間もなく轟いた雷鳴に発生源がここから近いとわかる。心なしか雷の度に雨足が強くなっているような気がした。バケツをひっくり返したような豪雨だ。 「蔵ノ介が考えている通りだよ」 そんな中で、は呟くように告げた。 「ここはわたしが生まれ育った家だ」 「――― やっぱりか。何となくそんな気がしとったわ」 「以前は親戚の方が一人で住んでおられたらしいけど、わたしが生まれる前に亡くなってしまってね。その方が、これから産まれる女の子のために使ってくれと遺言されていて、譲り受けたらしい」 そう語るの顔には苦笑が浮かんでいて、蔵ノ介も釣られて苦笑う。 が如何に大事にされているかは知っているが、まさかそれが産まれる前から、の誕生を見届けることなく逝ってしまった人までだったとは。 因みにこの家の管理は近くに住む親戚が請け負い、定期的に掃除までしてくれているらしい。 (はほんまに、みんなから愛されとるんやな) それが嬉しいようで、だけど悔しい。 を特別に想う者は大勢いて、のことだから、にとってその者たちは皆平等に特別で大切なのだろう。 蔵ノ介が知るはそういう人間であり、そんなだからこそ、蔵ノ介にとっては ―――。 「あ、そういえば……」 「ん? どないしたん?」 「父が大阪へ持って行けずに嘆いていた荷物の中に、確かわたしの写真があったはずだから、探せばアルバムの一つや二つ見つかるかも。……見たい?」 「――― 見たい! モチロン探すのは手伝うで。ここでただ座っとっても暇なだけやしな」 「それは有り難いけど、蔵ノ介はまず髪を乾かすのが先だよ」 「あ、そうやった」 首に掛けていたタオルを頭に被って水気を拭き取りながら、蔵ノ介は降り頻る雨に思う。 今はまだしばらく、こうしてと二人だけの世界に浸りたいと。 だって電話越しに思い出を語った昨夜のが自分の全く知らない存在に思えて、本当は焦りと嫉妬から今日の約束を取り付けたはずなのに。結果的にそれは蔵ノ介が知らないの一面を更に引き出すこととなり、蔵ノ介が一方的に感じている目には見えないとの距離感を、ますます広げただけだったから。 けれど今、蔵ノ介の隣に座っているは、少なくとも蔵ノ介が知るだから。 の幼少を残す写真は見たい。だけど安堵を覚えるこの現状からも離れ難くて、内心で葛藤する矛盾に蔵ノ介は俯いた。 ――― が今暮らしているのは大阪なのに。どうして東京で暮らしていた頃の家が、今も一部の家財道具と共に残されているのか。 その理由が訊けるだけの勇気を、蔵ノ介は持ち得なかった。 閑話:僕が知らない君*110301
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