時刻は夜九時を回り、襲いくる睡魔によって意識がうつらうつらになっていた頃だった。断続的な鈍い音が耳について不快感を覚え、うっすらと目を開く。 布団の上に正座し、深く俯いていたために筋張った首を擦りながら顰めっ面を上げると、何やら緑色に発光する物体が視界に入った。数秒間それを見つめ、はっとする。個人用に設定されている緑の光りを点滅させ、着信を知らせている携帯をすぐさま手に取り、通話ボタンを押した。 「も、もしもし!」 『――― あ、? すまん、遅なって。もしかして寝とった?』 「いや、うん、目が覚めた」 『何やそれ、やっぱり寝とったんやないか。すまんな起こしてもうて』 「ううん、大丈夫。平気」 確かに意識は飛んでいたが、微睡みのような浅いものだ。 不自然だった体勢を正すきっかけになったし、起こしてしまったと謝られるよりも、寧ろ起こしてもらえたことにこちらが感謝したいくらいだ。 「それより、その、……今日はお疲れ様。正直何と言えばよいのかわからぬが、その……」 『なあ。昼間から気になっとたんやけど、その口調。戻っとるのは勿論やけど、何やまた少し堅苦しくなっとらん?』 「え? ……は?」 そしてわたしの気質と昼間の出来事に加え、蔵ノ介とこんな風に間接的な方法で会話したことなど数えられるほどしか経験がないため話題にも言葉にも詰まるわたしに対し、蔵ノ介が遮るように話題にしたのは、わたしの頭には片隅にも欠片すら残っていなかったペナルティの話だった。 お陰ですぐに理解が追い付かず、間の抜けた反応しか出来ない。電話越しに聞こえた蔵ノ介の笑い声ではっと我に返る。 「蔵ノ介……」 『ははっ、すまんすまん、そんな怖い声出さんといてや』 「一体誰の所為だと思っている」 『せやけど、うじうじしとるなんてらしくないで。ちゅうかが気にすることは何もあらへん、勝ったモン勝ちや。それより来てくれてほんまに嬉しかったわ、ありがとうな』 嗚呼、どうやら気遣うべき相手に、逆に気遣われてしまったようだ。 先程は少し癇に障った笑いを含んだ声が、しかし今はそうは思わない。寧ろ誰も彼も自分より人のことばかりで、蔵ノ介の顔を見ることが出来ない現状が酷くもどかしかった。きっと声音とは裏腹な見るに堪えない顔をしているに違いない。 わたしが知る蔵ノ介はそういう人間で、とんでもない嘘吐きであると同時に馬鹿が付くほどの正直者で、器用であると同時に不器用な人間なのだ。 『そういえばと別れた後、青学にまた会うたで』 「せいがく……、国光たちに?」 『のこと訊かれたから、真田クンと一緒に帰ってもうた言うたら不二クンはえらい驚いとったけど、手塚クンはそうでもなくてなぁ。手塚クン、と真田クンが親戚て知っとったんやな』 「ああ、うん。弦一郎のお祖父様と国光のお祖父様が警察官だった頃の同期で、好敵手らしい。しかしお互い得物が異なるからよく将棋を指してらっしゃるのだ、けど、時に熱くなり過ぎる場合もあってね」 どういった流れでそのように話が展開したのかは知らないが、わたしが小学四年の時だ。 その日は真田家の縁側でいつも通り将棋を指してらっしゃった御二人は、いつの間にか目の前の勝負をそっち退けに白熱した そしてその舌戦当時、併設されている道場で丁度稽古中だったわたしは何も知らずに現場へ呼び出され、国一お爺様と対面した。 そこでわたしは国一お爺様に気に入られて、国一お爺様自慢の国光を紹介され、国一お爺様が得物とする柔道の手解きを受けることとなった。果ては国光の嫁に来いとまで言われ、そこからまたお二人の舌戦が勃発したことは、今でも印象深い思い出だ。 ……そういえば今日の準決勝の後、蔵ノ介たちに黙ってアリーナを出たのなら、国光にも周助にも挨拶一つしてこなかったな。 わたしという奴は、どれだけ手前のことばかりなのか。 『そうか、そないなことがあったんか……』 「当時は大いに戸惑ったけど、今になって思い返せばいい思い出だね」 『……』 「……蔵ノ介? どうし、……どうかしたの?」 急に沈黙した蔵ノ介に、怪訝になる。 まさか通話が切れたのかと、画面を確認しようと携帯を耳から離し掛けた時、『』今し方までとは異なる、真剣味を帯びた声で名を呼ばれた。反射的にすっと背筋が伸びる。 『あんな、ペナルティとかそんなん抜きで、に折り入って頼みがあるんやけど、ええか?』 「……ああ、構わないよ。わたしに出来ることなら喜んで引き受ける」 『にしか頼めへんことや。その、明日の決勝戦が大会側の都合で三日後に延びたのは知っとるか?』 「うん、帰りの電車で弦一郎たちが話していた」 お陰で万全に万全を期することは出来るが、国光たち青春学園には借りがあるとか何とか。 特に弦一郎はお祖父様同士の因縁か、国光と早く戦いたい様子であったが。 『さよか。――― ほんでな、俺らもと同じで決勝戦見届けるまでは東京に滞在することになったんやけど、その三日間特にやることもあらへんし、ぶっちゃけ暇やねん。ちゅう訳で、に東京案内して欲しいなぁ思てんけど、時間あるか?』 「特に用事はないし、うん、大丈夫。だけど案内とはいっても、在り来たりな場所ぐらいにしか連れて行くことは出来ないよ」 『ああ、そういうんは気にせんでもええて。行きたい場所はもう決まっとるから、にはそこまで連れてってもらいたいだけやし』 「行きたい場所……?」 一体どこへ行きたいのか訊いても、蔵ノ介は明日教えると言って頑なだった。 そして土地勘がない蔵ノ介にもわかりやすく、明日は蔵ノ介たちの滞在先の最寄り駅で待ち合わせることに決め、最後に「おやすみ」と電話を切る。最初に戻った待ち受け画面に表示される時刻は既に九時半を回り、十時に近い。普段九時には就寝しているわたしにとっては、充分夜更かしに値する時刻だ。 そのため電気を消して布団に横になれば、意識はあっという間に眠りの底へと沈んで行った。 せめて夢に見る*110224
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