四天宝寺対不動峰 ――― 聞き覚えがある名前だと思えば石田の出身小学校の学区内にあり、彼の弟が通う公立中学らしい ――― の試合は、四天宝寺の勝利で幕を閉じた。
 テニスのルールはさっぱりだが四天宝寺勢の実力は圧倒的で、特に千歳と彼が熊本にいた頃の旧知だという人物との試合は圧巻だった。

 そして勝利を喜ぶ間もなく、蔵ノ介たちは今、続く準決勝に向けたミーティングを行っている。
 この間にわたしは一足早く準決勝の会場であるアリーナへ入ろうとしたのだが、それを見越したように蔵ノ介に引き止められ、実際には運良く木陰に見つけたベンチにいた。出来れば不動峰戦で試合を一時中断させてしまったように、わたしの存在がこれ以上彼らの邪魔になるのは御免だったのだが。
 とは言えそんなこと、何の連絡もなく不用意に彼らの前に現れた時点で今更かもしれない。これなら事前に連絡しておけばよかった。

さん」
「……千歳? どうした、次は準決勝だろう。こんなところで何をしている?」

 するとそこへ、テニス部のユニフォーム姿ではなく、いつの間にか私服に着替えた千歳が現れた。
 鉄下駄を履く重量感がある足音とは対照的なゆったりとした足取りで彼はこちらにやって来て、空いている隣に腰を下ろした。そしてその手に持っていたスポーツ飲料をわたしに差し出す。

「こまめに水分補給しんと倒れるばい」
「気遣いは有り難いが、わたしよりも千歳が飲むべきだろう。つい先程まであれほど白熱した試合をしていたのだし」
「んー、おれは大丈夫っちゃけど……そんなら半分こするたい」

 そう言った千歳は早くも汗を掻き始めているペットボトルを開封して口を付けると、二口ほど飲んだところで、それをまたわたしに差し出した。
 ここまでされると断るのは逆に失礼に思えたので有り難く受け取ることにし、わたしも二口ほど飲んで千歳にボトルを差し出す。そうやって交互に口を付け、一度は譲られたが遠慮した最後の一口を購入者である千歳が飲み切る。そうして空になったボトルを彼はしばらく手の中で遊ばせ、やがて独り言のように告げた。

「テニス部、辞めてきたった」
「……そうか」
「そんだけ? 理由とかは訊かんと?」
「わたしは千歳が安易な選択をする人間だとは思えない。故に千歳が考え抜いた末に下した決断ならば、わたしが口出しすることではなかろう」
「……ははっ、さんには敵わんたい。男らしくて惚れ惚れするちゃ」

 そう言う割には幼子の相手でもするように、千歳はわたしの頭を撫でて笑った。何とも寂しげな笑い方だった。
 ――― だから思わず手が伸び、わたしもまた千歳の頭を撫でる。
 普段ならば決して手の届かない身長差だが、隣合って座っている今なら抱き締めようと思えば抱き締められるほど、わたしたちの距離は近いのだ。ここぞとばかりに撫でてやると千歳は最初驚いていたが、それはすぐに照れ臭そうな笑みへと変わり、お返しと言わんばかりにわたしの頭を更に撫で返して来た。

 その結果お互いぐしゃぐしゃになった髪にわたしたちは顔を見合わせて笑い、お互いが責任を持って相手の髪を整え合った。


「――― くん!」

 懐かしい呼称が鼓膜を打ったのはそんな時だった。声がした方を振り返れば先程は碌に言葉を交わせなかった、これまた懐かしい姿が二つ。
 その一方、駆け足でこちらにやってきた彼は木陰と陽当たりの境目手前で急に足を止めた。その表情には驚きと戸惑い、そしてわたしの思い込みかもしれないが、喜びの色も滲んでいるように見受けられる。

「ほ、本当にくん……?」
「ああ、正真正銘のだ」

 どうやら未だわたしが“わたし”であるという確信が得られていないのか、恐る恐ると言った風情で投げ掛けられた問いに、わたしは肯定を返した。
 途端に彼は泣き出す寸前のような悲痛に顔を歪める。同時に一歩距離を詰めて木陰の中に踏み込んだ足は、だがそこで躊躇うように止まった。その理由が最初はわからなかったが、現状と重なる情景を思い出して納得した。
 恐らくわたしたちが最後に会ったあの日、彼が自らに立て宣言した誓いが抑止力となっているのだろう。

 ならば、事は簡単だ。
 あちらが動けないのなら、こちらから動けばいい。

「久し振りだな ――― 周助」

 立ち上がったわたしは彼の前まで歩み寄り、昔はわたしよりもやや下にあった頭を、あの頃のように撫でた。
 ――― 次の瞬間、完全に木陰の中へ踏み込んだ周助に抱き竦められる。昔は大差なかった体格差は今や性別の違いを見せつけるかのように顕著となり、けれども背中に回る縋り付くかのような腕は変わらない。それが何ともこそばゆかった。


「国光も久し振りだな」
「ああ、久し振り。それにしても、と不二は知り合いだったのか?」

 相変わらずマイペースと言うか、周助とは対照的にゆったりと歩み寄って来たもう一人、国光とも、周助の肩越しになってしまったが再会の喜びを交わす。そして真面目な性格の一方で意外に天然な国光は、わたしと周助のこの状態に触れるのではなく、わたしたちの関係性について首を傾げた。
 まあ同じユニフォームを着ている周助と国光が同じチームに所属する仲間なのは一目瞭然でも、わたしと周助、或いはわたしと国光の繋がりについては、確かに見ただけでわかるものではない。

 一先ず国光には肯定だけし、周助には解放を促す。不満そうにはされたがどうにか自由になったところで、わたしは後ろのベンチを振り返った。
 そこでは案の定、千歳が困惑の表情を浮かべていた。

「すまないな、千歳。驚かせたろう」
「いや、構わんたい。ばってん、さんは不二周助と手塚国光の二人と、知り合いなんと?」
「ああ、周助とは同じ小学校に通っていたんだ。国光とはお互いの身内同士が知り合いで、その関係でちょっとな。そう言う千歳こそ二人と知り合いなのか?」
「知り合いっちゅうか、二人共中学テニス界では有名人たい」

 ほう。国光が強いことは知っていたが、周助までもとは。
 驚きと感心で周助を見ると、周助は誇らしげながらも恥ずかしそうに笑った。

「周助も立派になったのだな」
「うん、くんに認めてもらいたくて頑張ったからね」
「何だそれは」

 認めるも何も、周助が才能ばかりの人間ではないことは百も承知している。
 伊達に小学校六年間を同じ教室で過ごし、それでなくとも常に周助の身近にいた訳ではない。

「だってくん、下手な大人より腕っ節は勿論精神的にも強くて格好いいし ――― それに、綺麗だし。そんなくんに釣り合える“男”になりたかったんだ」

 周助は指先でそっとわたしの頬を撫でて微笑み、その右手で今度は梳くように髪へ触れた。

「髪、最後に会った時よりも大分伸びたね。昔はあんなに短かったのに」
「あ、ああ。母が伸ばせと言うのでな」
「ふふっ、相変わらずなんだね。小父さんは? 元気にしてる?」
「有り余るほどにな。周助の方こそ、ご両親は息災か? お姉さんや裕太は?」
「みんな元気だよ。裕太なら今日観戦に来てるはずだから、どうせだし会って行くかい?」

 なかなか魅力的な誘いに心惹かれたが、大して面識のなかったわたしのことなど祐太は覚えていないだろうと思い、断ろうとした瞬間だった。
 ――― 絶叫が空気を裂いた。
伸ばした手の先*110218