八月十九日。大阪へ戻る予定日であったこの日、しかしわたしは弦一郎と共に、弦一郎が通う学校の最寄り駅前にいた。
 それもこれも滅多に会う機会がない親戚の方々にならまだしも、年がら年中わたしに構う父によって著しく損なわれたこの度の人権を主張してみたところ、主に一族へ輿入れした女性陣の方々が、わたしの援護に回ってくださったからだ。

 多勢に無勢だったとは言え、親バカなあの父が一体何を言われて負かされたのかは謎だが、お陰で当初の予定通り今日大阪に戻るのは父と母の二人だけになった。
 わたしは共に味方してくださった弦一郎のお母様のご厚意で、弦一郎の大会が終わるまで、真田家に滞在出来ることになったのである。


 そして燦々と照り付ける真夏の陽射しを避けた日陰に弦一郎と佇み、わたしは大阪と似て非なる賑わいを眺めていた。
 すると不意に、隣で改札口の方を気にしていた弦一郎が「来たか」と呟いた。釣られてそちらに目を向ければ、三日振りになる姿が丁度改札を抜けるところだった。

「おはよう、真田。相変わらず今日も早いね」
「ああ。おはよう、幸村」

 一昨日も昨日もここで待ち合わせしたそうだから、精市は迷うことなくこちらへとやって来た。
 そしてその視線が弦一郎の隣にいるわたしに移り、目が合う。精市はきょとんと瞬いたかと思えば、見る見る内に瞠目した。

「おはよう、精市」
「お、おはよう。えっと……、だよね?」
「……年単位振りだった先日は仕方ないにしても、たった三日振りの今日までその反応とは、いくら何でも薄情だぞ」
「あ、ご、ごめん。この間とは全然雰囲気が違うから、びっくりして……」

 まあ、確かにその反応は道理だろう。
 三日前の再会時のわたしは、化粧をしていたとは言え大学生に間違えられるような老け込み具合だったのに対し、今日は所謂すっぴんで、十人並みの凡庸な顔をしているのだから。精市が驚くのも戸惑うのも無理はない。
 そう考えて納得したところで、わたしは自分の思考に落ち込んだ。

(いくら事実でも、自分で自分の心に改めて傷を負わせてどうする……)

 しかし精市の到着を皮切りに続々と集まる先日の面々も、大なり小なり精市と同じような反応をするものだから、気にするだけ徐々に馬鹿らしくなった。
 中でも集合時間間際の遅刻寸前に現れた赤也の反応が先日に引き続いて過剰で、わたしはこの瞬間に開き直ることに決めた。

 東京へ向かうために乗り込んだ電車内は然程混んではいなかったが、嵩張るテニスバッグを持った八人もの人間が一塊になっているのは、いくら何でも邪魔でしかない。
 自然わたしたちは迷惑にならない場所へ二三人ずつで散ることになり、わたしは馴染みのある弦一郎と精市の傍にいることにした。しかし副部長と部長の立場にあるという二人は柳を交えた三人で、今日の試合に関した重要な話し合いを行うようだ。
 テニスの知識はさっぱりだが、これは部外者のわたしは席を外した方がよかろう。

 そう考えたところ不意に、服の裾を引っ張られる感覚がした。振り返るとそこには三日前の初対面時も今日赤也が来るのを待つ間も、一定の距離を保つか柳生の陰に隠れてばかりだった人物がいて、わたしは驚いた。
 自己紹介の時に目を合わせた以外、特別接触があった訳ではなかったにも関わらず何故か避けられ、てっきりわたしの何かが彼の気に障り、嫌われているのだとばかり思っていたのだが。
 他ならぬその彼からの接触に、少しばかり戸惑う。

「仁王、だったか? どうした、わたしに何か用か?」
「……ん」

 ともすれば電車の走行音に掻き消されてしまいそうなたった一音を零し、仁王雅治と名乗っていた彼は、伏せ目がちにしていた視線を動かした。
 釣られて視線を動かすと、そこには一つだけ空席があった。
 けれど丁度停車した駅から乗り込んで来た人がその空席に座ってしまい、仁王は途端にくしゃりと顔を歪める。

 恐らく精市と同じくらいの身長だと思うが、線が細い上に猫背のため実際より小さく見える身体や、派手な外見とは裏腹な弱々しい雰囲気に、妙な愛らしさが伴う。
 猫背を更に丸めて落ち込むそんな仁王の頭を、わたしは無意識の内に撫でていた。

 すると、仁王は弾かれたように顔を上げた。

「うっ、え、あ……」
「ありがとう、わたしに気を遣ってくれたのだろう? 残念ながら座ることは出来なかったが、仁王のその心遣いだけで、わたしは充分嬉しい」
「っ、ほ、ほんと……?」
「ああ、本当だ。ありがとう、仁王」

 おどおどする仁王を安心させるように笑い、誠意が伝わるように目を合わせる。
 すると仁王は見る見る内に紅潮し、しばらく視線を彷徨わせると今度は自らわたしと目を合わせ、音にするなら“へにゃり”と笑った。わたしもほっとして笑い返す。

 どうやらわたしは仁王に嫌われていた訳ではないらしい。
 推察するに仁王は一氏と同じく人見知りをする人間で、慣れない相手を一氏が威嚇して遠ざけるのなら、仁王は距離を取って避けてしまうようだ。
 そしてこれをきっかけに仁王はわたしを受け入れてくれたのか、最初のように服の裾を摘んで遠慮がちに引き、優しい眼差しと表情を浮かべる柳生の許へわたしを連れて行った。

「どうやらさんと仲良くなれたようですね」
「ん。さんは、怖くなか」
「ええ、そうですね」

 まるで子供を褒める親のように柳生は仁王に笑い掛け、それからわたしを見た。そして苦笑する。

「申し訳ありませんでした、さん」
「……何がだ?」
「先日初めてお会いした際、仁王くんがさんに対して失礼な態度を取っていたことです。事情があったとは言え初対面の方に不快な思いをさせてしまい、すみませんでした。私から謝罪します」

 動いている電車の中では多少限界があるが、それでも深々といった感じに、柳生は頭を下げた。仁王自身も申し訳なさそうにしゅんとし、小さい声ながら謝罪を口にする。
 その光景に、けれどわたしは笑いが込み上げた。
 堪え切れずに肩が震えて僅かだが声が漏れると、顔を上げた二人は怪訝に首を傾げる。

さん……?」
「っ、いや、すまない。仁王のことなら謝らずともよい。わたしの身近にも仁王と似たような人間がいるのでな、大方の事情は察した。大丈夫、わたし全く気にしていないから」
「仁王くんと似た方、ですか?」
「ああ。極度人見知りで、本当は誰よりも寂しがり屋なのに、それを素直に認めることが出来ない。強がってばかりの奴がな」
「それは……確かに、仁王くんと似ていますね」
「更に言えば、今の柳生の立場がわたしに該当する。わたしもよくあれの仲介をしているからな」

 だから仁王の代わりに謝罪する柳生の姿に、自分の姿が重なって見えた。
 そして第三者から客観的に見た自分の姿というものを思わぬところで遭遇し、ついつい笑いが込み上げたのだ。

 仁王と一氏が似た者同士なら、柳生とわたしもまた似た者同士だ。そんな意外な共通性にわたしと柳生が顔を見合わせて笑っていると、また服の裾を引っ張られる感覚がした。
 見ればすっかり蚊帳の外になってしまった仁王が唇を尖らせて拗ねた顔をしていて、わたしはまた笑った。
そして導くもまた*110213