「弦一郎」 今日は早めに切り上げられた練習を終えて、一行が校門を出るか出ないかの、その時だった。 呼ぶ者が少ない下の名を凛とした声に呼ばれ、一団の後方を歩いていた真田弦一郎は前方に目を向けた。 そこには校門の門柱を背にし、目にも鮮やかな赤 ――― 紅を基調にした着物を纏い日傘を差す、明治の頃の淑女を髣髴とさせる出で立ちの女性が一人佇んでいた。彼女はその瞳に真田の姿を映すと、 彼女の動きに合わせ、艶のある黒髪を飾る着物と同じ紅の細工が施された簪が、しゃんと涼やかな音を立てた。 その妙に艶めかしい色香が漂う光景に、一同は硬直した。 自分たちの周りに群がり、馴れ馴れしく擦り寄って来る同年代の少女たちとは全く異なれば、そもそも次元が違い、足元にも遠く及ばない。そんなモノを何の心構えもなく突然目にして平静でいられる訳がなかった。 「――― もしや、か?」 そんな中、真っ先に我に返ったのは他でもない、女性に呼び掛けられた真田だった。 彼は半信半疑に目の前の女性のものと思われる名を呼び捨てにする。 それらの反応は今時在り得ないほど堅物で色恋沙汰に初心な彼を知る者からすれば、天変地異の前触れを予感させるほど意外で、それこそ在り得ないことだった。いつもなら真っ赤になってお決まりの台詞を叫ぶだろう場面のはずが、自ら女性の許へ駆け寄るなど、ますますもって在り得ない。 そんな多数の動揺などお構いなしに、女性は拗ねたように唇を尖らせて真田を迎え入れる。 「もしや、とは何だ。ほんの数ヶ月会わない間に、弦一郎はわたしの顔を忘れたというのか?」 「い、いや、まさかがいるとは思っていなかったので驚いただけだ。それにしても、やはり俺の見立て通り、にはその色がよく似合う。とても綺麗だ」 「ほ、本当か?」 おまけに女性の容姿に関する讃辞や真田が女性の着物を見立てたなど、耳を疑う話まで聞こえた。 真田に褒められてうっすら頬を染める女性の、愛らしくも美しい外見とは裏腹な男性的な口調に対する衝撃が、些細に思える。それほど本当に、現状は在り得ない事態だった。 やはりこれは天変地異の前触れだろうか。 或いはひょっとして、自分たちは夢を見ているのかもしれない。 各々が各々、当人が知れば怒髪天衝くこと間違いない形で現実からの逃避を試みる中、唯一行動を起こした者がいた。 「お話し中のところ申し訳ないけど、ちょっといいかな?」 彼ら立海大附属中学男子テニス部部長、幸村精市だ。 彼の呼び掛けに二人は揃って振り返り、真田は彼らしくもなく仲間たちの存在を失念していたのか、慌てた様子で謝罪を口にする。 一方で女性の方はというと、幸村を目に止めた途端、何故か幸村の顔を凝視し始めた。 自身の容姿が人より整っている自覚のある幸村は、異性から熱の篭もった視線で見つめられたり見蕩れられたり、或いは同じテニスプレイヤーから探るように強く熱心な眼差しを送られたりすることは、何度となく経験してきた。 けれど目の前の女性のように、特別な感情を一切見受けさせない視線でただひたすら凝視されることは、これまでに経験したことがなかった。 だから自分で声を掛けて招いた状況に、女性の態度に、少なからずの戸惑いを覚える。 「あの、俺の顔に何か付いてますか?」 「……いや、不躾に見つめてすまない。重ね重ね失礼だが、もしや 「――― えっ?」 「やはりそうか。以前 驚く幸村の反応で確信を得たのか、女性は懐かしそうに目を細める。 けれど幸村には、生憎と目の前の女性に全く見覚えがなかった。その戸惑いを察したのだろう。女性は苦笑する。 「精市がわからないのも無理はない。見えたと言っても小学五年の頃に一度切りだし、あの頃のわたしは髪が短く、男に間違われることが多かったからな。実際あの時の精市も、わたしが女と知って酷く驚いていた」 その話で幸村の脳裏を過ぎったのは、小学校五年生の夏。当時通っていたテニススクールで知り合って意気投合した真田の家へ、初めてお邪魔した時のことだ。 そこで幸村は一人の少年 ――― 否、少女と出逢った。 同い年ではあったが自分より背が高く、しかし髪は自分よりも短くて、小学生ながら堅苦しい言葉遣いだった真田よりも、余程堅苦しい言葉遣いで男らしかった。幸村にとってはいろいろな意味で衝撃的な出逢いを果たした少女だ。 ――― そうだ。 あの少女の名前と、先程真田が口にしたこの女性の名前。幸村の記憶違いでなければ、どちらも同じではなかっただろうか。 「もしかして、……?」 「ああ、そうだ。思い出したのか?」 「あ、ああ、うん。でも、え? ほ、本当に、あのなのかい?」 「精市の言う“あの”が何を指しているかは計り兼ねるが、本当も何も、わたしは正真正銘のだ」 そうはっきりと断言され、耳に続き我が目も疑う展開に、幸村は絶句した。だってまさか、あの少年のような少女がこんなにも美しい大人の女性に変貌を遂げるなどと、一体誰が想像できただろうか。否、できるはずがない。思わず反語で強調してしまう。 第一、彼女が幸村のことを男らしくなったと言うのなら、その彼女はほんの数年で随分女らしくなった。――― いや、成り過ぎだ。 「すまないが、そろそろ彼女が誰か紹介してもらえないだろうか? 話を聞いていた限り、どうやら弦一郎と精市の知り合いのようだが……」 そして驚愕のあまりミイラ取りがミイラとなった幸村に代わり、この場ではまだ冷静な柳蓮二が、改めて動いた。 すると真っ先に反応したのは真田でも幸村でもなく、他でもない女性本人だった。 「これは突然何の挨拶もなく失礼した。わたしは、真田家の縁者だ」 「……柳生先輩、“えんじゃ”って何スか?」 「切原くん、あなたと言う人はそんなことも……いえ、今はいいでしょう。簡単に言えば、親戚と言うことです」 「――― ええええっ!!? こ、こんなキレイな人が真田副部長の親戚!? けどっ、全然似てないじゃないスか!!!」 隣にいる先輩にこっそりと己の無知を晒し、剰えそれはそれは大変失敬なことを絶叫した後輩に、真田は眉間に皺を刻んだ。 その隣で、顰めっ面の真田とは対照的に女性は ――― は微笑む。 「親戚と言っても遠縁で、兄弟ではないのだから、似ていなくて当然だ。ところで其方らは弦一郎と同じの部活動に所属する方々とお見受けするが、相違ないだろうか?」 「ああ、同じテニス部の仲間だ」 未だに動揺の見える者もいたが、の確認を肯定した柳の挨拶を皮切りに自己紹介が始まる。 そして全員が名乗り終えるとは改めて彼らを見回し、そっと柔かな笑みを浮かべた。 「弦一郎は不器用で融通の利かない面もあるが、同時に義理堅く芯のある男だ。どうかこれからも、弦一郎のことを宜しく頼む」 「、お前という奴は……」 「弦一郎を想えばこそのことだ、そう怖い顔をするな。――― さて、わたしはそろそろ そう言って綺麗に深々と礼を取ったは、最後に一つの微笑を残して踵を返した。 閑話:秒読みのない事実*110131
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