今になって思い返せば、幸いにも優しい出逢いに恵まれ、比較的穏やかに過ごせていたここ二年間の中で、偶然と言う名の理不尽に端を発する数々の出来事は、良くも悪くも特に印象深いものばかりだった。
 しかしそれは、一日の大半を学校という環境下で過ごしていたからこそのものと言っても、過言ではない。
 故にその学校へ行く必要がなくなる夏季の長期休暇 ――― 夏休みになってしまえば、日常はあの日以前までのような平穏へと戻った。

 そんな八月上旬。
 夏休みに入って間もなく迎えた梅雨明け以降、太陽が燦々と照り付ける夏日が続いていた日のことだ。


「しまった……」

 昼時にはまだ早い時分、唐突にわたしを訪ね、これまた唐突にわたしを外へと連れ出した蔵ノ介の妹である友香里に急用が入り、頻りに謝る彼女を気にするなと送り出して一足先に帰宅した今し方。自宅の玄関扉を前に、わたしは途方に暮れた。
 中身をひっくり返したところで、鞄の中に自宅の鍵は見当たらず。
 呼び鈴を鳴らしたところで、基本的に在宅しているはずの母は買い物にでも出掛けているのか、応答は得られず。

 今朝の天気予報曰く、猛暑日になるとのことだった今日。
 そして、日中で最も気温が上昇する時間帯の現在。

 状況は最悪だった。

 黒髪が熱を吸収して暑いのは勿論だが、太陽が頂点に存在する今作られる日影はあまりに小さく、それより遥かに広大な日当りからの照り返しが地熱を含み、直射日光よりも更に暑い。暑くて仕方なかった。
 冷房が欲しいと贅沢は言わない。せめて陽射しも照り返しもない安息が欲しかった。つまり屋内に行きたかった。家に入りたかった。
 けれども友香里に引き摺られるように連れ出され、確認を怠った鞄の中に自宅の鍵は存在せず。
 中から母に鍵を開けてもらおうにも、肝心の母は不在。

(あつい……)

 このままでは日射病になってもおかしくはなかった。

ちゃん? そんなところでどないしたん?」
「…………小母様……?」

 そんな時、不意に声を掛けられた。
 落胆と暑さにやられて鈍った頭では、名前を呼ばれたことは把握できても、名前を呼んだ声が誰のものかまでは判別できず。玄関扉に寄り掛かり、俯いていた顔を上げて認めた姿に、声の主が蔵ノ介たちの母親であることを初めて認識する。
 いつ見ても、何度見ても、こんな猛暑の中でも相変わらず綺麗な人だ。
 どうやら買い物帰りらしく、日傘を差す小母様は反対の肩に大きな保冷バッグを掛けていた。

「友香里がちゃんと出掛けて来る言うとったけど、もう帰って来たん?」
「あ、はい。友香里に急用が入ったので、わたしだけ先に……」
「そうなん? ごめんなぁ、いっつもあの子の我が侭に付き合わせてもうて。せや、そのお詫びっちゅー訳やないけど、家に上がってかへん?」

 なんて、文末に疑問符が付く疑問文でありながら、小母様の中ではわたしの訪問が決定事項になっているらしい。わたしの返答を聞くことなく、小母様は隣の自宅へとわたしの手を引いた。
 その言動は、文末に疑問符が付いていないどころかそもそも疑問文ですらない発言でわたしを連れ出した友香里とよく似ていて、見たところ小父様似であるはずの友香里と小母様の姿が重なって見えた。
 血の繋がりとは斯くも恐ろしい限りである。


「ただいまー」
「お邪魔します」
「あ、コラ。そやないやろ、ちゃん」
「……ただいま」
「はい、おかえりなさい」

 いくら親密な付き合いをしていても、余所の家であることに変わりはない白石家の玄関で、未だに慣れることがないやり取りを交わす。満足げな笑みを浮かべる小母様から、わたしは気恥ずかしさのあまり目を逸らした。
 すると視線を落とした先、玄関の土間に並ぶ沢山の靴の数に驚かされる。
 この家の履き物を全て把握している訳ではないが、男物のそれらはいずれも若向けであるため小父様の物ではないのは明らかだし、見覚えのある蔵ノ介の靴以上に履き潰されている物もあるため、すべてが蔵ノ介の靴でないことも明らかだった。
 それに勘違いでなければ、蔵ノ介の靴とは別に見覚えのある靴がある。

「上にクーもおるんやけど、今友達が来てて一緒に夏休みの宿題やっとるらしくてな。おばさん相手じゃつまらんかもしれへんけど堪忍してや」
「そんなことはありません。それにしても随分大勢来ているようですね」
「同じテニス部の仲間で、後輩の子らも来とるらしいで」

 ということは、あの靴はそういうことなのだろう。
 邪魔をしては悪いし、わざわざ確認しに行こうとも思わないが。

 けれども、確証は存外早々に得ることができた。


「――― え」
「えっ?」

 風の流れを作るため全開にされている居間と廊下を繋ぐ扉の方から驚いたような声が聞こえ、振り返る。
 すると聞こえた声色に違わず、何故か酷く驚いた顔をしている蔵ノ介と目が合った。

「ん? あ、クー。お友達も揃って、勉強会は終わったん? ほなら休みがてらスイカでも食べてかん?」
「スイカ!? 食べる! ワイ、めっちゃスイカ食べたい!」
「ちょっ、金ちゃん!」
「すみません。せやけど、ご迷惑やないですか?」
「昨日田舎から大玉二つも送られて来てなぁ。冷蔵庫占領されて邪魔やから、寧ろ食べてってもらった方が有り難いわ」
「そういうことなら、ほなご馳走になります」

 脇で繰り広げられる会話を余所に、蔵ノ介と目が合ったまま何となく視線を逸らせずにいると、室内にいるにも関わらず、不意に影が差した。
 思わず顔を上げると、影の原因である存在がわたしのすぐ傍らで、わたしの顔を覗き込むように身を屈めていた。
 その行為に、それを行っている人物に、驚きよりも既視感が先に立つ。

「千歳……?」
「……やっぱり。まさかと思っちけど、さんか?」
「? そうだが、いきなり何だ? いや、それより千歳。この間は」
「――― っ!!?」

 小母様に話を聞いた時、初対面以来になる千歳との再会を、期待していなかったと言えば嘘になる。
 あれから何度も一組に足を運んだが、間合いが悪いのか結局一度も再会出来ずに夏休み入りしてしまい、あの日の感謝も謝罪も碌に伝えられずにいたのだ。それを今、告げる機会にようやく恵まれ ――― しかし、裏返った素っ頓狂な声によって遮られる。

 叫んだのは一氏だった。
 その隣にいる小春共々、小母様の話と土間に並んでいた見覚えのある靴から、二人がいることは予想していた。
 たが一氏と小春の二人は固より光や忍足、その他見覚えはあるが名前までは知らない面々までもが、何故か蔵ノ介と同様かそれ以上に驚愕した顔でこちらを凝視していることに気付き、わたしはたじろいだ。

「な、何だ……?」
「……ほんまに、ちゃんなん?」
「は? ……千歳といい、さっきから何を言っている。わたしがわたしでなければ、他の誰だと言うんだ?」

 おかしなことを言い出した小春に怪訝になる。

「元の素材がええっちゅーのもあるんでしょうけど、さんて化粧映えするんすね」
「はあ? ……ああ、成る程。そういうことか」

 続いた驚嘆混じりの光の言で、わたしはようやく得心がいった。

 最早友香里や蔵ノ介と出掛ける際の恒例となっているため意識していなかったが、今のわたしはわたし自身が知らないところで増えていく“わたしの”化粧品によって化粧を施され、これまたいつの間にか購入されていたこてと整髪料で髪を弄られて、本来のわたしからは程遠い姿へと変貌しているだった。すっかり忘れていた。
 ここ二年間で妙に手慣れた友香里の腕前は勿論、化粧という行為が持つ神秘に、元のわたししか知らない面々は驚いているのだろう。

 わたしとて、部屋着の着物を追い剥ぎの如く脱がされ、着せ替え人形のように扱われるのには一向に慣れない。――― いや、慣れたくもない。あれには驚きもすれば戸惑いもし、時には呆れもする。
 特に今日の友香里は訪問が唐突だった挙句、最近衣替えしたばかりだった浴衣を剥ぎに掛かったかと思えば、浴衣とは本来そういうものであるのに、素肌に直接着ていたことに怒髪天を衝かれて散々だった。

 ほんの数時間前の出来事を思い出して苦々しい気持ちになる。
 すると不意に腕を掴まれ、見ればいつの間にか自失から戻った蔵ノ介がいた。
時も場所も都合も何も*101214