運動部を中心とした各部活で、全国大会への切符を手にするための大会が集中する七月。
 そんな重要な大会を前に、古賀を筆頭とした剣道部の面々から喝を入れて欲しいと請われた稽古に区切りが付いたところで、わたしは涼を求めて熱気が籠もる武道場を出た。
 しかしいくら今日が梅雨の合間に訪れた晴天とはいえ、湿度は雨天時のそれと変わりない。肌を舐めるようなじめじめとした不快感に顔を顰める。久し振りに思う存分身体を動かしたというのに、折角の心地好い気分が台無しだ。

 その一因である汗をどうにかするため、わたしは近くの水道に向かった。

 校庭に設けられている水道は主に部室棟の近くに設置されている。
 そのため時間によっては屋外で活動する部の部員たちが溢れているが、校庭が水浸しで使用できない今日は、上に向けた蛇口から出る水を頭から被る金髪の男子生徒が一人いるだけだった。
 自主的に走り込みでもしていたのだろう。上は汗で濡れて身体に貼り付いている白のランニング、下は学校のジャージを穿いているため、どこの部活に所属しているかまではわからない。見覚えがないため、少なくとも確率的に在り得る陸上部の人間ではないと思う。

(それにしても……)

 彼が行っている頭から水を被ると言う行為。
 以前はわたしもよくやっていたが、母に言われて髪を伸ばすようになってからはすっかり縁遠くなっている。髪の量が増えて乾きが悪くなったためだ。濡らした後の扱いが面倒というのもある。
 けれども今のこの不快感を拭い去るには、あれは最も手っ取り早く、これ以上にない手段だ。

 だが逡巡の末、わたしは両手で掬った水で顔を洗うだけに留めた。
 わたしがあれを実行した場合を考えた時、下世話な一人語りを始める古賀の姿が脳裏を過ぎったのだ。

 想像だけで疲労を感じさせる古賀の恐ろしさにぞっとしながら、顔を上げる。――― 斜向かいの蛇口を使用していたはずの金髪の男子生徒がいつの間にか正面にいて、目が合った。
 そこで初めて気が付く。彼は件以降、何度か顔を合わせることがあったテニス部のレギュラーだ。

 彼はわたしと目が合うなり、へらりと少々気の抜けた笑みを見せた。

「髪結っとったから自信あらへんかったけど、やっぱりさんやった」
「あ、ああ……」
「袴着とるっちゅうことは、さんって剣道部なん? あ、そういえば前に古賀から師匠呼ばれとったもんな」

 一人で言って納得する、笑顔通りの気安さを見せる彼の態度に、わたしは正直戸惑った。
 随分親しげに話し掛けられているが、わたしと彼が直接言葉を交わすのは、今この瞬間が初めてのことだ。以前から何度か顔を合わせ、小春や一氏など共通の友がいても、わたしと彼は精々顔見知りぐらいの関係でしかない。
 それに、何より、だ……。

「あの、失礼を承知で伺うが、宜しいだろうか?」
「ん? ああ、構へんで」
「……其方そなたの名は何と言うのだ?」
「…………は?」

 彼もまさか、こんな今更な問いをされるとは夢にも思っていなかったのだろう。
 ぽかんとした顔で固まる姿に申し訳なさが込み上げる。

「えっと、……さん、俺のこと知らんの?」
「テニス部のレギュラーであることは存じているが、その、他には特に何も……」

 あ、だが蔵ノ介や小春が恐らくは下の名で呼んでいたのは憶えているぞ。その下の名が何だったかまでは憶えていないが。
 後になって思えば全く取り繕えていない言い足しに、彼は水道の淵に手を付いて肩を落とした。その原因として大変心苦しい限りである。

「あ、あの、本当にすまない」
「……いや、思えば俺ら自己紹介とかしてへんし、自己紹介しとらんのやからさんが知らんのは当然や。せやのにさんが俺のことを知っとると思っとった俺が、自意識過剰やったっちゅー話や。――― よしっ!」

 突然意気込んだ彼は勢いよく顔を上げ、人好きのする笑みを浮かべて右手を差し出した。

「ほな改めて自己紹介から始めよか! 俺は忍足謙也。知っての通りテニス部のレギュラーで、白石と同じ三年二組に在籍しとる。仲良うしてや!」
「――― わたしは。三年七組在籍だ。先程は申し訳なかった。こんなわたしでよければ、こちらこそ宜しく頼む」

 差し出された手を取って握手を交わすと、金髪の彼 ――― 忍足は笑みを深めた。つられてわたしまで笑みが零れる。
 しかしそうか、蔵ノ介たちが呼んでいたのは「謙也」と言う名前だったのか。……ん? ケンヤ?

「もしかして、光の話によく出てくる“ケンヤさん”とは忍足のことか?」
「えっ、さん、光と仲ええん? ちゅうか今、光のこと呼び捨てにしとった? い、いつの間にそない仲良うなってん!?」
「いつって、ちょっ、落ち着け、忍足」

 間にある水道を乗り越えて来そうなほど身を乗り出す忍足を、わたしは彼の肩を押して留めた。

 始まりが始まりだっただけに、わたしと光が親しくしている事実に驚くのは仕方なかろう。だがあの件については既に方が付いているのだから、あの時と今とで関係に変化が起こるのは何ら不思議ではない。そう考えると、忍足の驚きようはいくら何でも異常ではなかろうか。
 それともわたしと光が親しくしているのは、それほどおかしなことだろうか。

「先日の休みに街中で偶然会って、一緒にお茶したんだ。その時に、自分もわたしを下の名前で呼ぶから“光”と呼べと」
「光からそう言ったんか!?」
「あ、ああ……」
「なな、なななっ……! あいつ俺にはそない可愛げあること一度も言うたことあらへんのに! 名前呼びかて俺がほとんどごり押ししてできるようになってんのに! さんには自分から名前呼びせぇ言うたやと……!!?」

 先程わたしが彼を知らないと言った時以上の猛烈さで落ち込む忍足に、わたしは困惑するしかなかった。
 ただ一つはっきりしているのは、光の天邪鬼な生意気さに忍足は随分踊らされ、苦労させられて来たのだということだ。今にもくずおれてしまいそうな様が得も言われぬ同情を誘う。

「……こんなこと、わたしから言っても説得力に欠けると思うが、光は他より忍足を慕っているし、好いていると思うぞ」
「――― えっ?」
「メールが苦手なわたしの練習に、光とはよくメールをしているんだがな。光から送られて来るメールの内容は、大抵がテニス部のことで、毎回必ず忍足の名前が出て来るんだ」

 現状で把握している限り、光は好んでもいない人間の名前を頻繁に話題にするような性格ではない。それどころか、あれは嫌った人間は歯牙にも掛けないどころか、そもそも存在を認識すらしない人間だ。無関心であるより酷い。
 だからたとえ共に連なる言葉が悪態でも、それが本心でないことは、電子化された文面からでも十二分に伝わって来る。

「だから、光のことに関してはもっと自信を持ってもいいと、わたしは思うぞ」

 そう言って元気付けるように笑って肩を叩くと、呆けたような顔をしていた忍足は見る見る内に表情を輝かせた。
 そして彼の肩を叩いた手を両手で包み込むように握られる。

「ユウジがさんに懐いとる理由、何やわかる気ぃするわ!」


 後日、光から送られて来たメールの内容に、わたしは忍足には自信ばかりではなく自重も教えるべきだったと後悔した。
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