思い返せば、最初の異変は試験前。一度だけ一緒になった図書室での勉強会後。帰り道の時点で既に起こっていた。
 その日の朝に初めて共にした登校に引き続き、下校も共にすることとなった道中。わたしと蔵ノ介の間には、今朝とは異なる類いの沈黙が横たわっていた。息苦しさを覚えるほどの、何とも居心地の悪い沈黙だ。
 加えて蔵ノ介が纏う空気は獣の牙のように鋭く冴えて触れるに触れられず、結局わたしと蔵ノ介は最後の別れの言葉以外には一切の会話を交わすことなく、帰宅することとなった。

 ――― そして以来、わたしたちの間に接触はない。

 もともと家が隣同士とはいえ、一日の大半を学校で過ごしている身だ。クラスも委員会も異なり、唯一の共通点である文化部は担当する仕事が異なるため顔を合わせる機会がなく、放課後はお互い委員会や部活で忙しい。
 故に会おうとして会いに行くか、どちらかの家を行き来しなければ、わたしと蔵ノ介の間に接点が生まれることはない。

 だから最初は気付かなかった。
 ただでさえ少ない日常の接点すらも意図的に消されていることに ――― 避けられていることに。

「だが、その理由がわからんのだ。恐らくわたしも自覚していない何らかの非が、蔵ノ介を不快にさせたのだと思う。しかしいくら考えても、その非が何かわからない。蔵ノ介に直接問おうにも……」

 話している内に眼の奥が熱くなり、わたしは抱えた膝に顔を蹲めた。

 こんな経験は初めてで、だからどう対処すればいいのかわからない。そもそも避けられている理由がわからないから、対処のしようがない。
 正に八方塞がりというやつだ。

 すると頭の上にそっと重みが乗り、撫でられる。大きな千歳の手だ。猫たちも気遣わしげににゃーにゃー鳴き、わたしは更に膝を抱えて縮こまった。ところが突然、猫たちの泣き声が止む。
 方々で聞こえた草の擦れる音にほんの少しだけ顔を上げると、今し方まであったはずの姿が消えている。その理由は次の瞬間、また別の方向から聞こえた草を踏む音で知れた。

「千歳! 自分学校来とる時くらい真面目、に……」

 随分久し振りに聞く声だった。
 見れば蔵ノ介がいた。しかし視界がぼやけて顔がよく見えない。折角久し振りにまみえたのに、見ることが出来なかった。
 瞬きをすると熱いものが頬を伝い視界が晴れる。そこで初めて、わたしは自分が泣いていることに気が付いた。

 ――― 刹那、目の前を何かが横切り、真横から鈍い音が聞こえた。
 驚いて振り向けば蔵ノ介が千歳が馬乗りになり、その胸倉を掴み上げている。

に何したんや千歳!? 答えによっちゃ容赦せぇへんぞ!!」
「……別に何もしとらんちゃ。話ば聞いてただけたい」
「だったら何でが泣いとんのや!!?」

 あまりの事態に呆然とせざるを得なかったわたしだが、蔵ノ介の左手が振り上げられるのを見て我に返った。
 体格差のため抱き付くような形にしかならなかったが、後ろから蔵ノ介を羽交い締めにする。すると一瞬蔵ノ介の身体が震えた。その隙を逃さずに重心を後ろに傾けて蔵ノ介の身体を引き倒すが、尻餅をつかせることしか出来なかった。
 だが千歳の胸倉から手を離させることが出来たため、結果的には充分だ。

「なっ、何すんのや!?」
「黙れ馬鹿者!!!」

 蔵ノ介を一喝し、すぐさま千歳に近付く。
 どうやらあの鈍い音は蔵ノ介に押し倒された音ではなく、殴られた音だったらしい。千歳の右頬は赤く腫れ、唇が切れて血が出ていた。
 それを拭った自身の手が傷に障ったのか、千歳は顔を歪ませる。

「えっと、そうだ! 保健室に行こう。早く手当しなければ ―――」
「大丈夫やけん落ち着いて、さん」
「だがっ!」
「おれんこつはよか。さんは白石んこつ、よろしゅう頼むちゃ」

 千歳は頬を引き攣らせながらそれでも微笑み、ぽんぽんとわたしの頭を撫でると立ち上がった。
 そして去り際に、依然尻餅を付いている蔵ノ介の耳元で何事か囁き、目付きを鋭くする蔵ノ介に千歳は笑みを返した。

 のらりくらりとした足取りで千歳が立ち去ると、残されたわたしたちの間には、気まずい沈黙が流れた。
 しかし意図したものではないとはいえ、千歳が身体を張って与えてくれた機会だ。無為には出来ない。

「……蔵ノ介」

 今までに感じたことがない緊張に、少し声が震えていたかもしれない。
 名前を呼ぶと蔵ノ介はほんの一瞬だけ視線をくれ、すぐに目を逸らした。胸がぎゅっと、締め付けられる。

「後でちゃんと、千歳に謝れ。千歳は何もしていない。わたしの話に付き合ってくれていただけだ」
「……わかった。でも、話してただけで、何で泣いてたん?」

 お前がそれを訊くのかと、正直憎らしくなった。
 思い出すとまた眼の奥が熱くなり、わたしは俯いた。

? ……言いたないん?」
「……違う」
「千歳には言えても、俺には言えへん話なん?」
「――― 違うっ! 大体、元はと言えば蔵ノ介が……!!」

 顔を上げた拍子に、また涙が流れた。しかしこれ以上の涙はわたしの矜持きょうじが許さない。乱暴に拭い、涙腺が緩みそうになるのを目頭に力を込めて堪える。
 すると蔵ノ介はぎょっとした顔で身を退いた。その反応に、堪えたつもりの涙がまた零れる。
 どうやらわたしは自分が思っている以上に、この状況に参っていたらしい。一度ばかりか二度も零れた涙に、最早際限などなかった。

「ちょ、っ? な、何で泣くん!?」
「蔵ノ介、が……」
「お、おう。俺が?」
「わたしを、……避ける、から」
「…………えっ?」

 自分で言葉にすれば状況が身に沁みて、ますます泣けて来た。
 だが、こんな女々しいわたしはわたしではない。らしくない。それもこれも蔵ノ介の所為だ。八つ当たりと言われようが、何も言わずに、急に人のことを避け出した蔵ノ介が悪い。何もかも蔵ノ介がいけないんだ。
 後になって思えば何とも稚拙で短絡的な思考に至り、憎らしさのあまり蔵ノ介を睨み付けようとした時には、わたしは蔵ノ介の腕の中にいた。

「――― すまん」

 何故、蔵ノ介が苦しそうに告げるのかがわからない。
 避けられていたのはわたしで、避けていたのは蔵ノ介の方だ。そのきっかけが何であれ、最初に動いたのは蔵ノ介の方だったのに。

「避けるつもりはなかってん。せやけど俺、周りが思っとるような人間ちゃうし、ほんまはごっつ我が侭やし、一緒におったらのこと傷付けてまう気がして……。けど、逆にそれがのこと傷付けてたんやって、今頃わかったわ」

 腕の力が増して、蔵ノ介との距離が更に近付く。
 痛いくらいの抱擁だったが、そんなことは気にならなかった。

「……理由、は?」
「え? り、理由?」
「どうして、一緒にいればわたしを傷付けると思ったんだ? 理由がわからなければ、理解も納得も出来ない」
「それは、その、えっと……」

 言い淀む蔵ノ介の胸を押して少し離れた間近で向き合うと、蔵ノ介は居た堪れない様子で目を泳がせた。
 そしてやがて観念し、この距離だからこそ聞き取れる小さな声でこう白状した。

「……嫉妬、したんや」
「嫉妬? ……何に?」
「金ちゃんと財前と、ユウジに……」
「何故だ?」
「や、やって! が金ちゃんのこと気に入るんは何となく予想しとったけど、抱き付かれても平気な顔しよるどころか胸に顔ぐりぐりされても嫌がらんし! 財前とは最初はツンツンしとったのに、途中からええ感じの雰囲気漂わせとったし! ユウジとは……」
「一氏とは?」
「……においが移るくらい、べったり一緒やったんやろ?」

 蔵ノ介が何のことを言っているのか首を傾げたが、一つだけ思い当たる。
 勉強会があったあの日の解散時、別れ際になってわたしとまだ一緒にいたいと駄々をこねた金太郎が抱き付いて来て、かと思えば鼻をくんくんさせながらこう言ったのだ。「やっぱり、姉ちゃんからユウジのにおいがすんで!」と。
 すると途端に、金太郎を引き剥がそうと騒いでいた一氏が赤面して固まり、一氏に代わって横から割り込んだ財前光に頭を殴られた金太郎が騒ぎと、有耶無耶になった話題があった。

「何を勘違いしているか知らんが、あの日は寧ろ、一氏とはほとんど顔を合わせていなかったぞ」
「…………は?」
「あの曜日の七組の授業は移動教室ばかりなんだ。においが移ったのは恐らく、あの日わたしと蔵ノ介が一緒に登校したのを知り、妙な対抗意識を燃やした一氏に小春が入れ知恵をして、一氏のカーディガンを着せられていたからだ」

 まあ、あの日カーディガンを着ずに登校したわたしが、移動教室ばかりでは肌寒かろうと思った小春の気遣いもあったのだろうが。
 わたしの見解では、小春の行動は一氏“で”遊んだ愉快犯的思惑が七割方だ。
 それを告げると蔵ノ介はしばし呆けたのち、長く重たいため息をつきながら項垂れた。わたしの肩に額を乗せて唸る。

「蔵ノ介?」
「……すまん、ちょお、待ってぇな。せやったら俺、一人で勘違いして嫉妬して、のこと傷付けてただけやん。ただの阿呆やん。在り得へんし」
「……そうだな。しかしお陰で、いろいろ気付いたことがある」
「気付いたこと? 何や?」

 首を傾けた蔵ノ介の視線を近くに感じて、わたしは久し振りに穏やかな気持ちで笑った。
 だが、そう簡単に答を教えては面白くない。この数日間で溜まった不満の意趣返しに、わたしは唇に人差し指を添えた。

「ナイショ」

 すると何故か、蔵ノ介は顔どころか耳や首まで赤くした。
 ……しまった、怒らせたか?
無自覚に、毒*101006