――― 不意に頬を襲った痛みにはっとすると、目の前には同じ剣道部に所属する級友の顔があった。
 すぐには事態を飲み込めずに呆けると再び、更に鋭い痛みが頬を走る。

「……いたいのだが」
「おっ、やっと帰って来たわ。珍しくぼうっとしとるけど、具合でも悪いん? はよせな次の移動に遅れるで?」
「……嗚呼、すまない。考え事をしていただけだ、体調に問題はない」
「ホンマに? 無理したらアカンよ?」

 方法は地味だが威力としては充分なこの強行に、手が放れても頬には痛みが残り恨めしさを覚えたが、まあいい。
 開きっ放しになっている前の授業の教科書と真っ白なノートを閉じる。
 次の授業がわからず教室に掲示されている時間割りに目を向けると、正面から「音楽やで」助言が入った。挙句早く用意しろと急かされるが、彼女にはわたしに構わず先に行ってもらい、仕度を済ませ席を立ったところで鐘が鳴った。

「……はあ」

 いかん、最近どうにも調子が悪い。精神的にらしくないほど不調だ。
 今も出来ればこのまま授業をサボってしまいたいと、不届きなことを考えている自分がいる。

 しかし現実に実行できるような性格はしていないため、わたしはのろのろと教室を後にした。
 隣の八組も今の時間は移動のようで、教室が無人だったのは幸いだ。こんな姿を一氏にでも見られれば、くだんの影響か一年の頃の懐きようがぶり返している近頃の現状に、更なる拍車が掛かるのは明白だった。
 尤も、既に何かしら感付いているのだろう。指摘や追及はないが、一氏や小春は勿論先の友人たちからも、無言の気遣いをひしひし感じている。

(全く不甲斐ない……)

 わたし一人に留まる憂いならまだしも、留まるどころか周囲に影響を及ぼしているばかりだ。それも悪影響を。
 解決するには一刻も早く、この憂いを晴らすのが最善だが、しかし……。

「どぎゃんしたと?」

 不意に頭上から声が降った。
 驚いて顔を上げると、いつの間にか足を止めていたわたしの顔を横から覗き込もうとする見知らぬ男の顔があり、わたしは反射的に飛び退いて距離を取った。すると男はそんなわたしの反応にこそ驚いたと言わんばかりの顔をし、すぐに苦笑する。
 上体を起こした男の身長は高く、手を伸ばせば天井に手が届きそうなほどだ。一瞥して気が付いたが、どうやら生徒らしい。制服を着ている。

「すまんこつ。こぎゃんとこに立ってどげんしたかと思っち声掛けたんやけど、驚かせたとよ」
「……は?」

 そして更に驚くべきは、男が口にしたのが大阪弁ではなかったことだ。
 そう言えば最初に掛けられた言葉も、これまでの大阪生活では一度も耳にしたことがなかった訛りだった。

 驚きの連続に混乱して思考が追い付かないわたしに、男はますます困ったように苦笑する。

「おれの言っちょるこつ、わかる?」
「あ、ああ。今のはわかった。自分の言っていることがわかるか、だろう?」
「! 大阪の人じゃなかと?」
「ああ、中学入学と同時に東京から越して来た。そちらは?」
「熊本たい。この春に転校して来たとよ」

 気持ちが落ち着いて来たからか、それともあちらが意図的にわかり易く喋ろうとしてくれているからか、ようやく会話が成立する。――― そこでふと思い出したのは、春先に小春が得意の「ロックオン!」を決め、キャーキャー黄色い声を上げていた転入生の話だ。
 しかし二年の頃は一人だけ違うクラスで一年間寂しい思いをした反動か、三年に進級し小春と同じクラスになったことで調子を上げた一氏が「浮気か!?」と騒いでいた印象ばかりが強く残っているため、肝心の転入生の話はよく覚えていない。ただ有名なテニス選手だと言う話は覚えている。
 何故なら彼の入部に際し様々な折り合いがあったのか、あの頃の蔵ノ介はしばらく気が立って……。

「どぎゃんしたと?」

 先程も聞いた言葉が、先程と同じく頭上から降る。
 無意識に俯いていた顔を上げると、再び上体を屈めた男が今度は正面から、わたしの顔を覗き込もうとしていた。だが今度は飛び退く真似はしなかった。

 男は気遣わしげな表情を浮かべている。思えば人から聞いた曖昧な情報だけで、名前すら知らない男だ。
 そんな人間にまで気を遣わせている自分が情けなくて仕方なかった。

「……何でもない。それより既に授業が始まって」
「――― 待ちなっせ」

 言葉を遮り、引き止めるようにわたしの腕を掴んだ男は、その巨体にあるまじき愛らしさでにっこりと微笑んだ。


 四天宝寺に三つある校舎の内、三号館に当たる校舎の裏手には、ちょっとした小山がある。
 時には美術の写生や生物の授業に利用されるその場所は、敷地の北側に位置し校舎が壁になっているため、お世辞にも陽当たりがいいとは言えない場所だ。お陰でそれほど木が茂っている訳ではないのに、鬱蒼とした印象を受ける。
 わざわざ靴を履き替えさせ、そんな場所にわたしを連れて来た男は、校舎裏のコンクリート部分に腰を下ろすと隣の地面を叩いた。

 要求通りそこに座ると、男は満足げに笑んだ。
 そして裏山の茂みに向かい「チチチチッ」と舌を鳴らす。間もなく草の擦れる音が聞こえた。

「猫……?」

 茂みが揺れ、現れたのは一匹の三毛猫だった。
 ところがその一匹を皮切りに、他にも虎柄やらぶちやら黒猫やら、合計六匹もの猫が次々に現れたではないか。
 猫はいずれも警戒することなく男に擦り寄り、正に猫撫で声を上げる。その姿の愛らしいこと極まりない。

 内一匹の黒猫が、その見た目に宿る気位の高さに反する甘えた様子でわたしに近付いて来た。少し濁った鳴き声が、それはそれで愛らしい。
 恐る恐る手を伸ばすと、わたしが触れるより先に自ら擦り寄って来る。そこがまた愛らしかった。思わず頬が緩む。抱き上げても嫌がられることはなかった。

「むぞらしか」
「は? む、むぞ……?」
「可愛いっちゅう意味ばい」
「成る程。そうだな、確かに可愛い」

 同意すると男は何故か苦笑した。
 しかし動物の中でも特に好きな猫との久し振りの戯れに夢中だったわたしは、それに気が付きはしても気に止めはしなかった。

「この猫たちは ――― そういえば、お互い自己紹介がまだだったな。わたしは三年七組のだ」
? 小春たちが最近ちゃく話したった?」
「確か同姓同名はいないはずだから、恐らくは。そちらはテニス部に入部した転入生とお見受けするが、違ったか?」
「いや、当たっとお。一組の千歳千里ばい、よろしゅう」

 この春に転校して来たと言っていたため確認したところ、どうやら彼が小春の言っていた転入生で間違いないらしい。
 つまり有名なテニス選手ということだ。あれだけの長身なら、バレー部の方が余程似合っている気もするが。

「それで、この猫たちは千歳が世話をしているのか?」
「みんな野良ばい。おれはこん裏山にちゃく来んしゃーんやけど、そん時に見つけたけん。そんで相手しとる内に懐かれたった」
「そうか。では千歳は、善い人間なのだろうな」

 わたしの言葉に千歳は不思議そうに首を傾げた。

「警戒心の強い野良がこれだけの数気を許しているのだ。恐らく本能的に、千歳の人の善さを感じ取っているのだろう」
「……買い被り過ぎばい。そげなこつはなか」
「いや、わたしもそう思うよ。知り合ったばかりだが、千歳は善い奴だ」

 そうでもなければ、わざわざこの場所へわたしを連れて来はしないだろう。
 人はひとが思うより無情だ。
 たとえ困っている誰かが目の前にいたとしても、自ら進んで手を差し伸べる者より、見て見ぬ振りで通り過ぎる者の方が圧倒的大多数だ。特にその誰かが見ず知らずの他人であれば、人はますます意に介さない。

「ならさんも、善い人やね」
「え? いや、わたしはそんな、大層な人間では」
「そん黒猫、おれにもなかいなか懐かんくて、こん前やっと触らせてくれたんやちゃ。やけん、ちゃっちゆう間に抱かしぇてもらえたさんは、おれよかずっち善い人たい」

 そう言った千歳は無邪気に笑い、顔の高さに抱き上げた三毛猫へ「そう思わん?」と同意を求めた。
 すると三毛猫は答えるように「にゃあ」と鳴いた。

 ――― 彼にならと、そう思った自分がいて、無性に泣きたくなった。
真綿で出来たこの世界*101004