「えっと……これでどや!?」
「正解、よく出来ました。じゃあ次の問題は自力でやってごらん。今の問題が解けたなら出来るはずだ」
「おう! んーっとなぁ……」

 頭を撫でた手が次に指し示した問題に、金太郎は早速勢い込んで挑みに掛かる。
 それは“遠山金太郎”と言う人間を知るテニス部の面々にとって、我が目を疑う光景だった。


「アカン、俺熱あるのかもしれへん。さっきから金ちゃんが真面目に勉強しとる幻が見えるんやけど」
「いや。幻やのうて現実やで、謙也。……信じられへんのは同感やけど」

 疑うあまり何度も擦った所為で目許が赤くなっている謙也に、小石川は冷静な突っ込みを入れた。
 しかし後に続いた呟きから判る通り、実のところ彼もまた驚いている。何しろ遠山金太郎と言えば、今年入学したての一年生ながら超人的な身体能力と野性的でデタラメな実力を持つことから、将来を有望視され早くも注目を集める選手である一方で、大人も手を焼く野生児として有名なのだ。
 “ゴンタクレ”と渾名される正にその通り、やんちゃで破天荒。よく言えば天真爛漫を絵に描いたような人間で、本能のままに生きている感があるため若干我が侭なところと、自由奔放過ぎて手に負えないところが多々ある。厄介も厄介な問題児だ。

 そんな金太郎を制御できるのが、我らがテニス部の部長である白石蔵ノ介、唯一人である。
 けれどもそれは、金太郎の入部当時に怪我のため巻いていた白石の左手の包帯を、金太郎がある漫画に登場する“毒手”と言う文字通りの毒の手と誤解し、信じ、恐れているからだ。怪我が完治した今も巻かれ続けている包帯がなければ、金太郎を制御することは白石にも不可能である。
 ――― しかしは、その不可能を事ある毎に金太郎の頭を撫でる片手一つで可能にしている。

さん、やったか? 彼女、一体何者なん?」

 そうなれば当然湧いてくる小石川の疑問は、何も今に始まったものではない。

 校内でも人目を惹く人間が集まっているため、何かと注目されやすいテニス部は良くも悪くも噂になりやすい。そのためつい先日まで校内で持ち切りだった噂に、小石川は副部長の立場からは兎も角、個人的な関心を抱いてはいなかった。
 しかし噂の当事者である彼女があの白石に横抱きにされてコートに現れ、金太郎とはまた別の意味で厄介な一氏から、小春に対するものより熱烈なスキンシップを受けていたともなれば、これは流石に興味が湧いてくる。
 今まで機会がなかった疑問を解消するには、今が絶好の機会だ。そう考えた小石川が謙也なら何か知っているかもしれないと思って問えば、謙也は「ああ、さんな」とやはり答を知っているらしい。

「白石の家のお隣さんで、白石とはこっちに越して来てから家族ぐるみの付き合いしとるらしいで。小春と一氏とは……友達?」
「いや、訊いとるんは俺の方やて」
「やって、小春とは友達かもしれへんけどユウジとは、なぁ? 友達より親鳥と雛ちゅー感じせん?」
「……確かに」

 彼らの関係を知らずにいた先程までの自分も、関係を知った今の自分も、謙也のその表現は言い得て妙だと小石川は納得する。
 それに恐らく、と小春を天秤に掛けた場合、一氏の秤はほぼ間違いなくの方へ傾くのだろう。そうでもなければ、図書委員長だと言う彼女がいるカウンターから最も遠い席で大好きな小春に一対一の指導を受けている一氏が、譫言うわごとのように「ー」と呟いているはずがない。
 しかもその視線が手元のプリントからの方へ逸れる度に、小春が装備するハリセンに容赦なく後頭部を襲われる始末だ。

 ……あまりに容赦がなさ過ぎて、流石に同情を禁じえない。
 だからと言って、小石川にはどうしてやることもできないが。

 ――― スパァン!

 あ、ほらまた今も。これで一体何発目だろう。
 自分たちが来た時には大勢いた利用者が時間の経過と共に次々退室し、今や片手で足りるほどしか残っていない誰もが見向きもしなくなっているため、相当の回数なのは確かと言える。


 ところで、小石川にとって目下の気掛かりは、実は金太郎でも一氏でもない。

 勉強嫌いで逃げ出した金太郎を追って出た図書室前の廊下で散々騒いだ後、小春によって一氏共々連行され今は一氏の隣に座らされている白石が、小石川には気に掛かっているどころか恐ろしくて堪らなかった。
 何故なら白石はあの場所に座ってからというもの微動だにしない上に、瞬きを惜しむかのような鋭い目付きで、カウンターの方を睨み付けているのだ。矛先は金太郎と、金太郎を挟んだとは反対側に座る財前に向いている。

 しかし財前は気付いているのかいないのか。
 まず間違いなく前者だろうが、彼はそんな白石を気にも止めていない。

 そもそも図書委員という立場を利用してわざわざ小石川たちから離れたカウンター内に座るのなら、何故雨と顧問の気紛れで部活が休みになった今日、白石が突然提案した自由参加の勉強会に出席したのか。小石川には不思議でならない。
 財前の性格を考えれば、折角の休みにこれ幸いと逸早く帰宅していただろうに。

 ふと、その財前の視線が驚愕を宿して動いた。視線をたどればの唇が動いている。

 原則的に私語厳禁の図書室の環境と、間にいる金太郎を気にしてか声が潜められているため、いくら静かな図書室と言えどカウンターから遠い小石川に、その内容を聞き取ることはできない。唇の動きを読むなんて芸当は以ての外だ。
 するとは徐に立ち上がり、財前の反対側へと回り込んだ。
 手元を覗き込んでいるため、財前にも勉強を教えているのだろう。よくもあの財前が素直に質問したものである。

(――― あ)

 その時、の肩から一房の髪が零れた。
 はそれを耳に掛ける仕種をし、流れ落ちた髪に気が逸れた財前の視線が、そのに固定される。
 硬直した財前に気付いて怪訝な表情を浮かべたと、を見つめる財前の視線が間近で交わり ――― 財前が椅子ごと大きく身を退いたのと、白石が椅子を蹴倒して立ち上がったのはほぼ同時だった。

 室内にいる人間の誰もが、重なった二つの音の内より大きな音を立てた白石の方を振り向いた。
 だからきっと、カウンターの方に視線を固定していた白石と、あまりの物珍しさに財前の様子を観察していた小石川ぐらいしか、気付かなかっただろう。一番近い場所にいたが、他と同じく白石の方を見たでさえ。
 と視線が交わったその刹那に紅潮した財前の顔や、顔面を片手で覆い俯いても隠し切れていない赤い耳や、そこから連想される意味に。

「し、白石? 急にどないしたん?」
「……え、あ、いや。目の前にいきなり虫が出て来よったから、びっくりしてん。どうも、お騒がせしてすんません」

 余程驚いたのか胸に手を当てている謙也と周りを、白石は尤もらしい言葉と愛想笑いで誤魔化し、倒した椅子を起こして座り直した。
 そして改めてカウンターへ向いた視線は、先程より割増で鋭くなっている。今度の矛先は財前のみだ。

「姉ちゃん、見てや! ワイ一人でもできたで!」
「えっ、ああ。どれ……うん、正解。凄いな、やれば出来るじゃないか」

 そこでは財前の異変に今頃気付いて首を傾げると、顔を覆うのとは反対の手で放って置いて欲しいという旨を伝える財前と、状況を知らずに頭を撫でられて喜ぶ金太郎と、ちょっとした混乱が起こっていた。
 ――― 瞬間、小石川は背筋を走った悪寒に肩を震わせた。頭の中で激しく鳴り響く警鐘が、本能が告げている。
 この鋭利な殺気を漂わすの方向を決して見てはいけない。さすれば視界の端で蒼褪めて硬直する謙也の二の舞である、と。
閑話:副部長は見た!?*100928