試験の時期が近付くと、放課後の図書室利用者は急激にその数を増す。
 特に期末試験の時期はそれぞれ雨や雪で運動部の方が休みがちになる影響か、部活が試験休みを迎える前の早い段階から人が多くなる。
 しかし一人で黙々と問題に向かう者や、幾人かで集まって欠点を補い合う者。或いは、頼り頼られ切りの者。そんな光景だけはどの試験時期でも変わらない。……いや、思えばその光景を作っている人間も、毎回変わらないな。

 まあ、それはさて置き。
 この他にも試験時期の恒例が、わたしにはある。


「頼む、。自分だけが頼りなんや……!」

 哀願というか切願というか、教師としての威厳も大人としての尊厳もなく、今にも土下座しそうな二回り近く年上の教師に、毎度のこととはいえわたしはため息を隠さなかった。
 何しろ職員室であるこの場に在室する他の先生方の大多数が、こちらに見向きもしないぐらいだ。
 だが一方では、たまたま職員室を訪れていた生徒や今年赴任されたばかりの先生方は、何事かとこちらを凝視している。それが真っ当な反応だ。故に後生だ、わたしや昨年以前から在職の先生方には恒例の光景でも、大多数の人間には異様でしかないことを自覚して戴きたい。

(四天宝寺の校風では不可能だろうがな……)

 特に今年赴任の先生方には、先月の中間試験と合わせて二度目になる光景だ。
 三度目を数えることになる十月の中間試験の頃には、恐らく他と同様に見向きもしなくなっているだろう。事実、去年がそうだった。

「……わたしより、小春に任せた方が宜しくはないですか?」
「いや、金色には了承もらい済みや。せやけど金色だけやアカンねん! あのアホを止められるんは、ボケ殺しのだけなんや!!」

 仮にも教え子をアホ呼ばわりするのは如何なものかと。
 それからボケ殺しは余計です。こちらに越して来てからというもの聞き飽きましたが、それは大阪人 ――― いや、四天宝寺の関係者が校長を筆頭に悉く、わたしには理解し得ない独自の世界を持っているだけの話です。

 先日の一件が片付いてから間もない中、またも余計な誤解が生じそうな状況にちょっとした反抗心が生まれて抵抗してみたが、それこそ余計な面倒を招きそうな方向に話が展開する気配に、わたしは更なる抵抗を二度目のため息に変えた。
 そもそも固より、わたしの中にこの頼みを断るという選択肢は存在しないのだから、実は抵抗自体が無意味なのだ。

「……わかりました。任されます」
「おおっ、流石はボケ殺し! ほなこれ特製の対策プリントや。その調子で頼んだで、!!」

 了承して早速、不名誉な賛辞にやはり断ろうかと一瞬思った。
 そもそも今の会話のどこにボケの要素があったのか、やはりわたしには理解できない世界だ。


 用意周到に準備されていたプリントの束を手に職員室を出たわたしは、雨音が響く廊下を図書室に向かって急いだ。
 普段は放課後も日中と変わらず賑やかな校内だが、雨の今日は運動部を中心としたほとんどの部活動が休みのためか、珍しく静かなものだ。しかし図書室が近付くにつれて、段々と騒がしい空気が漂ってくる。
 先述の通り、今日の図書室は試験勉強をしに来ている人間が多いのだろうが、こんなに騒がしいことは今まで一度もなかった。

 到着した戸の前で怪訝に思いながら伸ばした手が、取っ手に掛かる寸前、目の前の引き戸が勢いよく開いた。驚く間もなく胸部から腹部に掛けて鈍い衝撃が走り、重心が傾く。咄嗟に足を運んで堪えようとしたが ――― 無理だ。
 そう判断した瞬間、わたしは諸共崩れようとした“衝撃”を腕の中に抱き込んだ。固いリノリウムの床に背中から倒れ、一瞬息が詰まる。しかし条件反射的に受身を取ったお陰で大した痛みはない。

 ほっとして腕の中を見れば、視界は赤茶色の髪によって埋め尽くされた。
 力を緩めてその背中を撫でると小さな身体は一瞬びくりと震え、恐る恐るといった風情で顔が上がる。重なった視線にわたしは微笑み掛けた。

「怪我はないか?」
「あ、あらへん」
「そうか、それは ―――」
「金太郎! まだ始めたばっ、か、り……」

 よかった、と続くはずだった安堵の言葉は、耳慣れた声による耳慣れない怒鳴り声によって、音にならずに消えた。
 開きっ放しの戸の向こうから現れたのは、今朝振りに顔を合わせる蔵ノ介だった。戸の前で倒れているわたしたちを認めたその瞳は驚愕に瞠られ、言葉が途中になった口は中途半端に開いたまま固まる。滅多にお目に掛かれない間抜けな表情だ。

!? え、ちょ、大丈夫か ――― って金ちゃん!! 何しとんのや羨ましい、やのうて! はよの上から退かんかい!!!」
「わっ! ――― うげっ、白石!?」

 そして驚きから復活すると一転、目尻を釣り上げた蔵ノ介はわたしの胸元に顔を埋め、くんくん鼻を鳴らしていた少年の襟首を掴み上げた。
 制服の規定までネタに走る校則に則っているのか、半袖のワイシャツではなく豹柄のランニングを着る少年は溌剌とした生命力に満ち、見るからに活発そうだ。ほとんど一方的にギャーギャー騒ぎ、蔵ノ介の拘束に必死の抵抗を見せている。

っ! だ、大丈夫か!?」
「ウチの子がすまんなぁ、ちゃん。怪我してへんか?」
「一氏、小春。いや、大事ない」

 そんな目の前の騒ぎを聞き付け、職員室へ行く前、事前に待ち合わせをしていた一氏と小春が図書室内から飛び出して来た。
 丁度上体を起こしたところだったわたしの状況に一氏はぎょっとしたかと思えば動転し、一方で冷静な小春はわたしが立ち上がるのに手を貸してくれたばかりか、背面に付いた埃を優しく払い落としてくれた。礼を言うと、苦笑に近い笑みを返される。

「いややあああ!! 毒手いややああああっ!!!」
「――― うぐっ!?」

 すると突然、悲痛な叫びが鼓膜をつんざかんばかりに響き、直後にわたしの身体は再び、胸部から腹部に掛けての鈍い衝撃に襲われた。
 先程より優しい衝撃だったため少しふらつく程度で幸い転倒はしなかったが、代わりに物凄い圧力で締め付けられる。
 見れば蔵ノ介の拘束を脱した少年が小刻みに震えながら抱き付いていたのだが、小柄なその身体の、その細腕の一体どこに、こんな力が秘められているのやら。く、苦しい上に痛いぞ……!

「ゴルァアアア!! 何しとんのや金太郎!? から離れろや!!」
「ユウジの言う通りや、から離れんかい! って、こらっ!! 何ますます擦り寄っとんねん!!?」

 骨ごと内蔵を締め付けられるわたしと、わたしを締め付ける少年と、少年をわたしから引き剥がそうとする一氏と蔵ノ介と。
 それは傍から見れば、さぞや滑稽な光景だったであろう。だが一氏と蔵ノ介に抵抗することでますます強まる少年の恐るべき腕力によって、冗談ではなく絞め殺され掛けのわたしには、笑い話どころか死活の問題だ。

 ちょっ、誰か本気で助けてくれ……!

 ――― スパパァァァァァン!!!

 瞬間、相も変わらず厚紙に似つかわしくない音が響いた。
 同時に抵抗する少年諸共引っ張られる力がなくなり、咄嗟のことで身体が前のめりになるが、たたらを踏んで堪える。

「だったら自分らが金太郎から離れんかボケェ!! 特に白石! 金太郎も、ちゃんのこと絞め殺す気か!?」
「え!? うわっ、すまん姉ちゃん!」
「い、いや、大丈夫だ……」

 小春が繰り出した先日を遥かに上回る強烈な一撃に、一氏と蔵ノ介は声もなく悶絶した。
 少年も解放こそしてはくれなかったが力を緩め、申し訳なさそうに目尻を下げて、まるで大好きな主人に叱られた犬のような表情を浮かべる。だから心配要らないとの意味を込め、わたしは笑った。
 ついでにその頭を撫でてやると、猫毛らしい髪はさらさらと手触りがよく、蔵ノ介の家の猫に似ていた。動物好きには堪らないものがある。

 少年が嫌がるどころか気持ち良さそうに目を細め、胸元に擦り寄ってくることもあり、その愛らしさにわたしの頬は自然に緩んだ。
二度ある事は一生モノ*100911