六月になり、梅雨入りが発表されてからの天気は雨天と曇天を繰り返す日々が続いていた。 斯く言う今日の天気は雨。降水確率は午前午後共に九割との予報で、残り一割は期待するだけ無駄だろう。一方で衣替えが済んだ半袖の制服では、肌寒くもあれば湿度が高いためじめじめと暑くもある。カーディガンが必要か否か微妙な気温だ。 「! 蔵ノ介くんが来てるわよー!」 「…………は?」 カーディガンの必要性の有無を悩んでいたそんな日の朝、階下の母から思わぬ言葉が掛けられた。 反射的に時計を見れば、朝から人を訪ねるには聊か早く、毎朝部活の朝練がある蔵ノ介なら既に学校にいるはずの時刻だ。けれどもこの雨の影響で、屋外で活動するテニス部の朝練は中止だろう。だから蔵ノ介がまだ登校していないのはいい。しかし何故、家を訪ねる? 手にしていたカーディガンを置いて玄関へ急ぐと、応対していた母が「よろしくね」と蔵ノ介に告げていたところだった。 一体何をよろしくするのかは謎だ。しかしわたしとの擦れ違い様に何やら意味深な笑みを向けられたことから、いい予感はしない。母が消えた居間への戸を、わたしはしばし訝しげに見つめた 「おはようさん、」 「おはよう、蔵ノ介。こんな朝早くからどうしたの?」 「と一緒に学校行こう思て、誘いに来たんや。あ、自転車やないから安心してええで。この雨やと乗れへんしな」 確かにこの雨の中、傘を差しながら自転車に乗るのは危険だろう。 朝早くに訪ねて来たのも、自宅から学校までの距離を考えればそろそろ家を出る必要があるため、共に行こうと言うのなら当然だ。 蔵ノ介の誘いを断る理由はなく、わたしはこれを二つ返事で了承した。 少し待っていてもらうように言って居間へ行くと、戸を開けたところで母が待ち構えていて、目的だった鞄を手渡される。そして何故かご機嫌な母の「いってらっしゃい」に送り出されて、わたしと蔵ノ介は連れ立って家を出た。 ……そうか、母が蔵ノ介に言っていた「よろしくね」はこのことか。理解した。 蔵ノ介と歩く通学路はなんと言うか、新鮮と言うよりも違和感に満ちていた。 先日共にした帰途は精神的に余裕がなったため意識する暇がなかったが、常に一人でいた空間に突然他者が現れたのだ。違和感を覚えるのは当然だろう。何よりもその他者が蔵ノ介であるということが、上手い表現が見つからないこの状況に拍車を掛けていた。 蔵ノ介も似たような気持ちでいるのか、家を出た後のわたしたちの間に会話はなかった。傘を叩く雨音が五月蝿く感じられるくらいだ。 沈黙も蔵ノ介と言葉なく過ごすことも珍しいことではないが、今日ばかりは居心地が悪い。 しかし聞き手に回ることが多いわたしに、こういった状況に適した話題を出せるような器用さはない。そういったことは蔵ノ介の方が気が回るということもある。 一瞬蔵ノ介の横顔を窺い、そこでわたしははたと、ある事実に気が付いた。 「蔵ノ介」 「お、おお。どないしたん?」 「……ありがとう」 わたしが告げた感謝に、蔵ノ介はきょとんと瞬いた後、すぐに怪訝な顔をした。 前振りもなく突然こんなことを言われれば、当然の反応だろう。 「俺にはに感謝される覚えなんてあらへんで」 「それでは尚の事、蔵ノ介には感謝しなくてはいけないね」 「何やそれ」 「そうだね。これと言った何か一つのことに対してではないけれど、最近で言えば、あの一件についてかな」 あの一件というのは勿論、財前光の行動に始まる非公式団体に絡んだ一件だ。 眉間に皺を作った蔵ノ介が何か言う前に、わたしは言葉を続けた。 「二年もの間、蔵ノ介はわたしを守ろうと行動してくれていた。だから、ありがとう」 「……あほ。せやけど結局、俺が力不足な所為で迷惑掛けてしもたやないか」 「結果はそうかもしれないけど、全部が全部、蔵ノ介の所為ではないよ。蔵ノ介がいくら手を尽くしても、最終的に必要になるのは一人ひとりの倫理や道徳だ。蔵ノ介は蔵ノ介で、己に尽くせる限りを尽くしてくれた。わたしが感謝しているのはそこだよ」 仮に蔵ノ介があの非公式団体について何かしらの処置をしていたとしても、彼女たちの意識が改善されない限り、何をしても無駄だ。解散させることに成功したとしても、裏では活動を続ける可能性も、その結果ますます陰湿な事態が起こった可能性もある。 一年の頃の出来事も、一氏一人に対してあの人数だ。そこに蔵ノ介を慕う人間まで加われば、流石に切り抜けることは不可能だったかもしれない。 それが最小限の数で済んだのは、蔵ノ介の行動あってのことだ。 「そら結果論やろ」 「それでも、わたしは蔵ノ介に感謝している。今回の件だけではない。こちらに引っ越して来た時から、わたしは蔵ノ介に助けられて来た」 「……」 「本当に、いくら感謝しても足りない」 告げた言葉に、返されようとした言葉は何だったのか。 口を開いては閉じ、結局は沈黙した蔵ノ介は困ったような、喜んでいるような、そんな笑みを浮かべた。 それからのわたしたちは、今まで一切交わることがなかった学校での時間を共有するかのように、これまで一度として話題にしたことがなかった学校生活や部活のことを話した。 最初は違和感に満ちていたはずの時間だったが、そうすることでようやく新鮮さを覚えるようになり、蔵ノ介について改めて知ることができた数々がくすぐったさを伴った喜びを齎す。それは同時に、実際に己の目で目の当たりにできなかったことへ一縷の口惜しさを抱かせたものの、後悔はなかった。 ――― 何故なら今、わたしの隣には蔵ノ介がいるのだから。 零れ落ちた音*100615
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