籠に自身とわたしの荷物を積み、荷台には未使用だというタオルを座布団代わりに敷いた自転車に跨り、蔵ノ介は後部に向かって顎をしゃくった。
 言葉のない仕種だったが、そんなものがなくとも蔵ノ介が言いたいことはわかる。わかるのだが、その答を持ち得ない場合 ――― それに応えられない場合は、一体どうすればよいのだろうか?

? 何しとん、はよ乗りや」

 困惑して固まるわたしに、蔵ノ介は怪訝そうにそう言った。
 わたしは荷台を凝視していた視線を蔵ノ介に移し、しかしすぐに逸らした。

「……いい、歩いて行く」
「はあ? そないしたら家帰るのに最低でも三十分は掛かるやんか、何言うとんねん。遠慮せんと、さっさと乗り」
「いや、遠慮ではなくて……」
「だったら何なん? らしくないで、はっきりしぃや」

 確かに、こんな風に煮え切らないのはらしくないと、自分でも思う。それも余程苛立ちを誘ってしまう様なのか、語気が強く刺々しさを感じる蔵ノ介に、気まずさから後込み気味のわたしは呆気なく気圧され負けた。
 それでも最後の悪足掻きに若干躊躇し、わたしは周りには誰もいない蔵ノ介と二人だけの状況だと知りながらも、小さめの声でこう明かした。

「乗れないんだ」
「…………は?」
「だから、乗れないんだ。生まれてこの方一度も、触れたことすらない」

 すると今度は蔵ノ介の方が固まった。ぽかんと口を開けて、まるで絵に描いたような姿だ。
 そのまましばし沈黙が流れ、やがて蔵ノ介は恐る恐ると言った風情で「それは自転車に、やんな?」と確認して来た。わたしは小さく頷く。――― 刹那、「ぶっ!」と蔵ノ介は突如噴き出した。

「な、ナルホド。せやからは、じ、自転車通学が許可され、とんの、に、徒歩通学しとっ、たんか……!」
「……笑うのか喋るのかはっきりしろ」
「――― あははははっ!!」

 で、笑う方を選択するのか。
 いっそ清々しいまでに失礼だな。これでも一応、気にしているというのに。

「仕方なかろう。東京にいた頃も今も、バスや電車を利用すれば大抵の場所へ行けるし、多少の距離は歩けば済む住環境で、自転車に乗る必要性など皆無だったんだ。悪いか?」
「わ、悪くはあらへんけど、何ちゅうか、可愛いな思てん」
「……この年になって触れたことすらないのは、寧ろ無様だと思うのだが」
「ええやん、それはそれで。別にが自転車乗られへんでも、が乗りたなったらいつでも俺が乗せたるしな。それと口調、戻っとるで」

 どさくさに紛れてペナルティを追加した蔵ノ介は滲んだ涙を指で拭うと、まるでわたしは安心させるように、刺々しさが失せた柔らかな笑みを浮かべた。
 大丈夫だからと今一度促され、横座りより安定性があるという、蔵ノ介と同じく自転車に跨る形で荷台に腰掛ける。手の位置は服を掴むと駄目出しされ、蔵ノ介の腰に腕を回して腹の前で指を組む形に直された。
 この時蔵ノ介の身体がわずかに震えたのだが、未知の体験を前にしたわたしに気に止めている余裕はなかった。

「っ、ええか? 自転車っちゅうんは、ハンドルが重たいほどバランスが取り難いもんなんや。せやから籠に荷物が詰まっとる今回は最初ふらつくけど、心配せんでも大丈夫やから。慌てんとしっかり掴まっとき。絶対に離したらあかんで?」
「わ、わかった」

 忠告を受けて心構えができたお陰で少しは緊張が解れるも、「行くで」その合図にまた身体が強張る。
 蔵ノ介の両足が地面を蹴り出して離れ、状態がふらつく。
 しかし忠告の通り、わたしは腕の力を弱めるどころか強め、蔵ノ介の背中にしがみついた。そして徐々に速度が出て自転車が安定してくると、伴って身体の強張りが解けていく。

「どーや、。初めて自転車乗った感想は?」
「お、思っていたよりも速いっ」
「せやけど風が気持ちええやろ? 特に坂道下った時は最高やで! 今度連れてったろか?」

 馬鹿。今初めて自転車に触れ、荷台とはいえ乗った人間にどんな嫌がらせだ。
 平地で充分心臓が五月蝿いのに、坂道になど行けば今度は心臓が止まるかもしれない。冗談ではなく、割と本気で思った。

 それからしばらく走り学校と自宅の中間辺りにある公園を通り過ぎた頃に、それまでわたしの緊張を解すかのように取り留めのない話をしていた蔵ノ介が、突然沈黙した。
 一体どうしたのか。余裕が出て来たわたしは蔵ノ介の背中から頬を離し、顔を上げた。

「蔵ノ介……?」
「なあ、

 お互いの呼び掛けが重なり、特に用件がなかったわたしは蔵ノ介に先を促す。
 風に髪が靡く蔵ノ介の後頭部からは、流石に表情を察することはできない。覗き込む動きを取れるほどの余裕はまだないため、わたしは元の体勢に戻った。

とユウジって、ごっつ仲がええんやな。ひょっとしたら、小春とよりも仲ええんとちゃう?」
「ああ、それは多分、わたしたちがお互い最初の友人同士だからだ、ね」
「最初の友人同士?」

 恐らく蔵ノ介は、近頃は落ち着いていた懐きようが今日の一件で再発し、蔵ノ介とこうして帰宅する間際まで駄々を捏ね、どうにか宥め賺したものの小春に半ば引き摺られてようやく帰宅した一氏の様子から、そのようなことを言い出したのだろう。
 だが一氏があんな調子なのは、一氏にとってわたしの存在が、身内以外で初めて生まれた関係性だからだ。

「わたしにとっては大阪に来て最初の。一氏にとっては人生初の友人同士だから、小春に対してよりも明け透けなのだと思う」
「いや、それだけやあらへんやろ」
「え? なに?」
「何でもないわ。それよりユウジが大阪に来て最初の友人って何やねん。そこはウチの姉貴とか友香里とか……俺、とか。ユウジより先に知り合うてた人間とちゃうん?」

 何となく拗ねているように聞こえる蔵ノ介の口調を不思議に思いながらも、わたしは首を振った。

「あの時の蔵ノ介たちは、家が隣同士の『ご近所さん』くらいにしか思ってなかったから。今だから言える話だけど正直、その、あまり関わりたくなったし……」
「え、何やそのカミングアウト。俺らの気に障ることしてもうてたんか?」
「そうではなくて、環境の変化がまるで異国に放り出されたかのような心地だったから。言葉の勢いや人の気質に圧倒されてしまって……」

 自転車についての告白に次ぎ、恥ずかしい話だ。
 これもまた予想外だったのか、背中越しにでも蔵ノ介の驚きが伝わって来た。誠に申し訳ない。

「せやけど、あの時っちゅうことは、勿論今はちゃうんやろ?」
「今は、そうだね。『身内』かな」

 本当に知り合って二年と少ししか経っていないのかというくらい、今の家と白石家は濃密な関係を結んでいる。
 両家の親同士が仲良く旅行に行ったり、その間残される子供のわたしたちは大抵の場合白石家で寝食を共にしたり、家族ぐるみで出掛けたり。わたしたち子供が互いの家を出入りする際、互いの親に「いらっしゃい」ではなく「おかえりなさい」と迎えられるほどだ。

「まるで、もう一つ家族ができたみたいな感覚だね」
「……まあ、それが狙いなんやろしな」
「狙い? 何が?」

 何でもないと蔵ノ介がまたよくわからない何かを否定した時、キキッと音を立てて自転車にブレーキが掛かり、気付けばわたしたちは自宅前に到着していた。
 隣同士とはいえ自分の家を通り過ぎてわたしの家の前で停車した蔵ノ介に心配されながら、わたしは危なっかしくも荷台を降りた。お尻が少々痛い。

「今日はいろいろありがとう、蔵ノ介」
もとはと言えばウチの部員が招いたことやし、が気にすることとちゃうで。それより事前に連絡しとるとはいえ、大丈夫かいな。やっぱり俺も説明に付き合うで」
「いや、母は理解があるから大丈夫。問題は父の方だから」
「……ああ」

 そう。蔵ノ介も納得するほど、父も母も一人娘のわたしに対して親バカな人たちだが、より酷いのは父の方だ。

 あの人はわたしの口から異性の名前が出るだけで異常に反応し、子供相手であろうと容赦なく牽制を掛ける大人げない人なのだ。だからわたしは、その手の交友関係の話は母にしかしていない。
 一年の時にあった一対多勢の争いについても、父が知れば相手方の家に乗り込むのは目に見えていたため、表沙汰にしなかったとはいえ流石に隠し通せなかったことは、母にのみ話してある。あの時は確か「東京も大阪も、女の子はどこでも同じなのね」と、ため息されたな。

「そういう訳で、父が帰る前に隠蔽しなければならないから、今日はこれで。ジャージとタオルは洗って返すよ」
「別に服着替えたらそのまま返してくれたってええで、こっちで洗うし」
「それは駄目」

 自転車を方向転換させた蔵ノ介が道を戻るのを見送り、隣の門扉の前で一度止まって振り返ったのに、わたしは笑って手を振った。

「また明日。おやすみ、蔵ノ介」
君が納まる特別枠*100602