射殺さんばかりに睨み付けていた時計の秒針が頂点に達した瞬間、一氏は勢いよく立ち上がった。
 同時に授業の終了を告げる鐘の音が鳴り響き、この時間の教科担任やクラスの人間が人によっては「ひっ」と引き攣った悲鳴を上げ、身体をビクつかせる。だがそれは一氏が関知するところではない。
 そもそも一氏にはそんなこと、気にする価値もない瑣末である。

 一氏は教室を飛び出し、教室から近い階段をもどかしさのあまり最後の数段を残して飛び降りながら、一気に駆け下りた。
 そして更には廊下を駆け抜け、プレートに『保健室』と書かれる教室の戸を、乱暴に開け放つ。

「――― ッ!!?」

 そこに広がっていたのは、目を疑う光景だった。
 と白石がここにいるのは、二人がこちらの方へ行くのは見たが戻る姿は見ていないため当然である。在室率が極めて低い養護教諭 ――― 名波という苗字から一部の生徒に“ナナちゃん”と呼ばれている男がいるのも、保健室なのだから問題はない。
 寧ろ問題なのは、と白石のその有り様だ。

 昼食を終えて別れた後の数分間に一体何が起こったのか。何故か頭からずぶ濡れになった姿で白石に横抱きされていたは、今度はその足の間に抱き込まれていた。
 加えて、が着ているのはにはサイズが大きいブカブカの、白石のジャージで。その白石がの腹部に回す腕は固より、そもそも肩に羽織るブランケットの下の上半身が裸なのである。
 剰え、あのの顔が茹で蛸のように真っ赤に染まっているではないか!

 一氏は口をあんぐり開けて固まり、だがすぐにはっとする。
 そしてこちらに駆け付けた勢いと同様かそれ以上の勢いで、一氏は白石に詰め寄った。

「ちょっ、白石!? なななっ何しとんねん!!?」
「何て、見たままやけど」
「な、おまっ、から離れろや!!」
「いやや、温いし離れとうない」

 一氏は白石の腕を掴んでから引き剥がそうとするが、白石はそれに抵抗してますます力を込めた。
 結果、一氏と白石に前後から挟まれている挙句締め付けられ、しかもそれが先程聞かされたばかりの、とんでもない噂の相手役とされた人間なものだから、にはいろいろと限界だった。

「ひ、一氏も蔵ノ介も離れろ!!」
「やって、ユウジ」
「アホ! 自分もや白石!!」
「二人共だ!!」

 ギャーギャー騒ぐそんな三人を、名波は一人定位置にしているデスクの椅子に腰掛けて観賞した。
 その顔はニヤニヤと笑い、愉快だとありあり書かれている。止める気は微塵も感じられない。

「……自分ら何しとるん? 戸開けっ放しにして、向こうまで丸聞こえやで」
「小春……!」

 そこに現れた第三者に、は一縷の希望を見出した。
 言外に「助けてくれ!」と込めてその名前を呼ぶと、小春は一つため息して三人の許に歩み寄り ――― スパパァァァン!! どこからともなく取り出したハリセンで、いつかを思い出す強力な一撃を白石と一氏、それぞれの脳天に見舞った。
 そして二人が怯んだその隙に、の腕を掴んで背後に庇う。

ちゃん困らせて、二人して何しとんねん、あァん?」
「こ、小春……!!」
「す、すまん……」

 ハリセンで肩を叩きながら凄む小春の迫力に、一氏はただ悶絶し、白石は悶絶しながら素直に謝罪した。
 厚紙製とは思えない威力を持った武器をちらつかせるどころか、あからさまにされては、そうする他なかったとも言う。

「…………何やねん、このカオスな光景」
「ああ、謙也くん。頼んどったモン、持って来てくれたん?」
「お、おう。ほれ、白石」

 そこへ更に人が現れた。カオスと表現した通りの有り様に出入口で後込みしていた謙也は、笑顔で振り返った小春に後押しされて保健室に踏み込んだ。
 そして真っ直ぐ白石の許に向かい、先の授業中に小春と交わしたメールで、授業が終わったら保健室に届けて欲しいと頼まれた、白石の部活のジャージ ――― テニス部のユニフォームを持ち主に手渡した。

「とっとと服着や、蔵リン。そしたら何があったんか、一から十まできっちり聞かせてもらうで。――― 光もいつまで躊躇っとんねん。自分が蒔いた種やろ、ちゃんと落とし前つけや」

 後半は開きっ放しの戸の方へ向けられた小春の言葉に、はびくっと身体を揺らし、そろそろと振り返った。
 キュッと上靴のゴム製の靴底がリノリウムの床と擦れる音を立てて、まずはその足が。そして下から順に現れた全姿に、やはり蘇るのはあの噂で。
 幾分落ち着いていた熱が一瞬にしてぶり返したは、唯一の拠り所である小春に背中からしがみついて顔を埋めた。それに対して白石や一氏が何か言っていたようだが、今のに気にする余裕はない。

(死ねる、今なら羞恥で死ねる。寧ろ塵すら残さずに消えてしまいたい……!!)

 重症である。


 がそんな状態のため、事態の全容把握は小春が中心となって行われた。
 そもそもの発端となった財前の嘘。翌日には既に広まっていた噂。徐々に誇張されていったその内容。名波が聞いたという一氏の名前も加わった新たな噂。そして今回の一件。

「光との噂が広まったんは、誰かが意図的に広めたからやね」
「誰かって誰や?」
「それはわからんけど、可能性があるんは光にフられたっちゅう子やな。そうでもあらんと、人気のない放課後の話が、翌朝にあんなん広まっとらんやろし」

 恐らくテニス部のファンクラブを焚き付けるのが目的だったのだろう。
 しかしの性格に加え、同じ委員会所属でも接触が全くなく、噂の裏付けとなるようなことが一切なかった二人だ。彼女たちも事を起こすまでには至らず、しかし一氏を交えた新たな噂が登場したものだから、今回の一件に繋がったのだろう。

「そういうんを踏まえて考えると、今回の実行犯は一年生か二年生のどっちかやね」
「何で言い切れるんや? が水掛けられたんは三年の階なんやから、三年がやった考えるんが普通やろ」
「そら在り得へんわ」

 小春の推理に反論した白石を、しかし小春はきっぱりと否定する。
 一氏も「せやせや」と小春に同意した。

「今の三年生には、ちゃんに手ぇ出す人間は一人もおらんよ」
「……どういうこっちゃ?」
「あいつら、前にに手ぇ出して返り討ちにあっとんのや」
「…………は?」

 一年生の頃だ。は一時期、一氏のファンを自称する人間たちに嫌がらせを受けていた。
 愛想皆無で目付きは悪いが、顔立ちが整っているため、一氏はそれなりに女子から人気があったのだ。

 しかし当時重度の人見知りだった一氏は、小春以外には唯一人、にしか懐いていなかった。
 二人は当時クラスが一緒で一氏は常にの後ろを付いて回り、自分に近付く人間は男女を問わず嫌うのは勿論のことながら、更にはに近付く人間までも威嚇するような状態だった。それが一氏を慕う女子の心に嫉妬の火を灯らせ、その矛先がに向く結果となったのである。

「けどそれが原因で、ユウくんはますますちゃんにべったりなってな。で、嫌がらせが酷なる悪循環や」
「最悪のパターンやな」
「せや。ちゃんもちゃんで顔色一つ変えへんから、遂にファンクラブがプッツンしてもうてなぁ。学年問わず十人以上集まって、ちゃんのこと呼び出して囲ったんよ」
「ほんで、見事に返り討ちや。俺らが駆け付けた時には死屍累々やってん」
「し、死屍!?」

 素っ頓狂な声を上げた謙也の驚きは当然だろう。
 現代社会に於いて“死屍累々”なんて表現、そうそう使うものではない。

「手前勝手な理論に腹立つより呆れたんで指摘したら、図星指された集団が襲い掛かって来たんやと」
のは立派な正当防衛や。連中の中にはカッター持っとる奴もおったんやぞ!」

 そんな訳でこの集団リンチ未遂は、特に大多数で一人を囲ったファンクラブ側には、表にしたくない問題である。彼女たちはに謝罪し、はじめから表沙汰にする気などなかったはこれを赦した。
 そしてこの一件により、ファンクラブには『に手を出してはいけない』という暗黙の了解が誕生した。同時にその恐怖はまるで箝口令かんこうれいが布かれたかのように、ファンクラブ内ではタブーとなった。

 故に当時のファンクラブにいた人間 ――― 今では現三年生のみが、の恐ろしさを知る最後の人間なのである。だから彼女たちがに直接手を出すことはまず在り得ない。
 逆を言えば、当時を知らない一年生や二年生は、手を出せてしまうということだ。

 そんなことをして、どんなしっぺ返しがあるのかも知らずに。
閑話:最強伝説彼女?*100417