授業時間独特の静けさの中で、ペタペタというその音は耳についた。 どこかのクラスが体育の授業をする校庭からの賑わいと、刻一刻と刻まれる秒針の音しかしない中では、異質とも言える音だからだろう。どうやら足音のようだが、廊下の方から聞こえるそれは、徐々にこちらに近付いている。 ここの廊下沿いには保健室以外に目星い教室がないことを考えると、目的地は間違いなく、正に“ここ”だろう。怪我人か病人か、或いは別の理由を持った訪問者か。いずれにせよ蔵ノ介のためにも、この状態を見られることは芳しくない。 しかしこの足音が聞こえているはずの蔵ノ介はわたしを解放するどころか、わたしの二の腕ごと囲っていた腕の位置を腹まで下げ、ますます力を込めた。 そしてわたしの身体は丸椅子からすぐ後ろの長椅子に ――― 蔵ノ介の足の間に引き摺り上げられた。 「お、おいっ、蔵ノ介!?」 「ペナルティや、大人しくしとき」 肩口に顔を埋めたままのくぐもった声で蔵ノ介はそう告げる。 ペナルティとは、育ってきた環境上男言葉が癖になっていたわたしに「女の子がそない乱暴な言葉使たらあかん!」とある日突然説教した蔵ノ介が、しかしなかなか改善が見られないことに憤怒して設けたものだ。 その内容は『わたしが男言葉を一回遣う度に、蔵ノ介の言うことを一つ聞く』という理不尽極まりないものである。 しかし蔵ノ介の背後には、わたしの言葉遣いに悩みを抱えていたらしい両親という名の究極兵器が控えているため、わたしには拒否権がないのも事実だ。蔵ノ介も蔵ノ介で笑顔のまま怒るという器用な真似をするため、ますます抵抗しようがない。 だが何も、今持ち出さなくてもいい話題だと思う。 顧みれば今日のわたしは蔵ノ介の前での言葉遣いが終始アレで、ペナルティの数は間違いなく過去最悪を記録しているだろうが、還元するのは後でもいいだろう。今回の内容は状況からして、今までの膝枕や買い物に付き合うなどより性質が悪過ぎる。 「し、しかし ―――」 「俺はもう逃げへん。もう二度とこんなことが起こらんように、のこと、ちゃんと守るから。せやから頼む」 覚悟、決めさせてや。 肩を離れて耳元に寄せられた熱が掠れた声で囁いた、正にその瞬間だった。 ガラッと開かれた戸の音に、反射的にそちらを振り向く。 やって来たのは学ラン姿の人間でも、ワンピース型の制服を着る人間でもない。私服の上に白衣を着た男性で、男性はわたしと蔵ノ介の状態に当然ながら瞠目し、しかしすぐに顰めっ面になった。 その視線を室内に一巡させながらすんっと鼻を鳴らし、男性は後ろ手で乱暴に閉めた戸に腕を組んで寄り掛かる。 「ヤるんなら空き教室にでも行けやボケ」 「開口一番に何ちゅーこと言うねん、卑猥やでナナちゃん」 「あァ? 誰がナナちゃんや。人様の城穢しよって、タレ込んでもええねんで?」 「ほなら、こっちはナナちゃんが構内で隠れて喫煙してることタレ込ませてもらうわ。ちゅうか誤解や、誤解。わかっとってそない言うんやから、ナナちゃんはほんま人が悪いわ」 蔵ノ介と言葉の応酬を繰り広げる男性は、察するに養護教諭なのだろう。 わたしが最後に保健室を訪れたのは一年の頃、この男性が着任してくる前だ。当時の着任式では遠目にしかその姿を見られなかったので、ちゃんと顔を知ったのは今が初めてだった。 「チッ。上半身裸の男と、その男のジャージ着た女がいちゃついとったら、まず言っとかなあかんことやろ」 「せやけど、にその手の話は冗談でもしたらあかんねん」 「“”……?」 初対面の人間にいきなり名前を呼び捨てされたどころか、それが怪訝な色を含み、剰え探るように見てくるものだから、わたしは一瞬肩を揺らした。蔵ノ介の腕の力がほんの少し強まる。 「気安く呼ばんといてや」 「……アホ、未成年のガキに興味ないわ。ちゅーか自分、ひょっとして“”か?」 「そうですが、それが何か?」 「いや、何やったっけアイツ、五輪ピアスの……せや、財前や。あれと噂になっとったと思たら次は一氏で、今度は白石かいな。テニス部は確かに見た目のええ奴揃っとるけど、その年で次々に男 「ちょお待てナナちゃん。それ、どういうことや?」 何やら聞き捨てならないことをさらっと、しみじみと言った養護教諭に、蔵ノ介がすぐさま食い付いた。わたしとて、あの青二才と噂になったのは兎も角として、“次は”一氏で“今度は”蔵ノ介とは一体どういうことだと怪訝になる。 すると養護教諭は眉間に皺を寄せ、自分が小耳に挟んだという噂について話してくれた。 それによると、人気のない場所での休憩中 ――― 先の蔵ノ介の言葉を借りるなら、隠れて喫煙していたのだろう ――― に何年生かは知らないが女子生徒がわたしのことを噂していたらしい。その内容は“わたし”は放課後の校内で財前光と情を交わし、更には一氏ユウジにも手を出している尻軽女だとか何とか、兎に角過激な表現でとんでもないことを言われていたらしい。 無論根も葉もない事実無根の噂だが、その話を聞いたわたしは頭の中が真っ白になった。 「――― は、破廉恥なっ!!!」 「ハレンチて、そらまた古風な言い回しやな」 「だ、大体何故わたしがあんな青二才と、そんな……っ! 一氏はただの友人だ! 愚弄するな!!」 「せやなぁ。呂律がよぉ回らんほど動揺して、そない真っ赤になっとるし、自分初恋すらまだやろ?」 「なっ……!!?」 「ナナちゃん、あんまりのこと苛めんといてや」 カッと、一気に全身が熱くなる。 この手の話は苦手だ。あれと噂になって小春に詰め寄られた時は苛立ちが勝っていたため気にならなかったが、今はとんでもなく直接的な表現でとんでもないことを言われた後で、だから、その……っ! 穴があったら入るどころか埋まりたいぐらいの羞恥に、わたしは縮こまった。 そんなわたしを宥めるように蔵ノ介が頭を撫でるため、わたしはますます、今すぐ消えてしまい衝動に駆られた。 純白の不可侵領域で候*100416
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