出入口に掛けられた在室中の札に反し、保健室に養護教諭の姿は見当たらなかった。 しかし蔵ノ介は気に止める様子もなく、わたしをそっと床に下ろすと、真っ直ぐ向かった棚からタオルを取り出した。それを押し付けるように渡されて咄嗟に受け取る。と、肩を掴まれて身体を反転させられ、ベッドの方へ押しやられた。 「く、蔵ノ介?」 「はよ着替えな風邪引いてまうで」 「だが着替えるにしても、替えになるわたしのジャージは教室に」 「今持っとるやろ。俺の貸したる」 「え? い、いや、それでは蔵ノ介が濡れたままに」 「ええから! 大人しく言うこと聞かんと、今すぐ小父さんに電話するで」 それは強力な脅し文句だった。 子供ながら親バカが過ぎると散々思わされて来たあの父に、この一連の出来事を知られては、どうなることかわかったものではない。想像すらしたくない恐怖だ。寒さとは別の理由で背筋がぞっとする。 ――― つまりわたしには、蔵ノ介の言葉に大人しく従う他ないということだ。 すごすごとベッドへ向かい、仕切りのカーテンを引く。その際見た蔵ノ介はしたり顔で、カーテンの向こうで何かを始める物音に先程を思い出すのと併せ、酷く苦々しい気持ちにさせられた。 肌に張り付く制服はワンピース型の所為もあって少々脱ぎ難かった。 だがそれ以上に問題なのは、上の下着も靴下も上靴も ――― 下穿き以外の一切が全滅だということだ。借り物を地肌に直接着るのは気が引けるので、どうしたものかしばし考え、タオルをバスタオルのように巻くことを思い付いた。結び目に気を遣って動きが制限されるが、こればかりは仕方ないだろう。 更に蔵ノ介との身長差を実感させられるハーフパンツを履き、袖を捲くって体裁を整えてから、カーテンを開ける。 「ちと大きかったみたいやな」 「男女の差だ、当然だろう」 「……せや、な。こっち来て座りや」 一体何をしているのかと思えば、蔵ノ介は保健室設置の簡易の流しで薬缶を火に掛けていた。 使っていいと言われたジャージが入っていた袋に濡れた一式を詰め、手招きされた処置用の長椅子に腰掛ける。そして裸足の足の裏に付いた埃を払っていると「ちゃんと髪も拭かなあかんで」と言われた。 しかし腕を上げてはタオルが解けてしまうためそれは無理だと、脇を締めた状態でわたしは首を振った。すると蔵ノ介は顔を顰めてため息する。 「ほな俺が拭いたるさかい、はこれ飲んで身体温めとき」 「ありがとう。だがその前に、蔵ノ介は自分をどうにかするのが先だ」 どこからか用意した茶器で淹れたお茶を手渡される。 だが人の心配をするばかりの蔵ノ介は未だ、特に肩から腹に掛けて濡れたワイシャツを肌に張り付かせたままだ。原因はわたしだが、とても人のことを言えた恰好ではない。 全くどうして、蔵ノ介はこうも己を疎かにするのだろうか。 「あほ、俺よりの方が濡れとるやろ」 「そんなことは関係ない」 「いーや、大いに関係あるわ」 「濡れているのはお互い一緒だ」 「それとこれとは話が別や」 両者一歩も退かずに睨み合ったが、こんな不毛な争いを続けていては、お互い本当に風邪を引いてしまう。 わかった、とわたしは頷き、受け取ったばかりのお茶を一気に煽った。猫舌ではないので問題なく飲める温度だ。そして空になった器を手近にあった消毒液など処置道具が乗るカートに置き、先に折れたわたしに満足げにしていた顔から一転、驚愕している蔵ノ介の腕を掴んだ。 長椅子の向かいの丸椅子に座らせ、先程渡されたタオルの中から未使用の物を一枚、蔵ノ介の手に押し付ける。 「蔵ノ介はわたしの髪を拭き、わたしは蔵ノ介を拭く。それで相子だ」 「――― は?」 「それならお互いの意に沿っているし、文句はないだろう」 寧ろ「ある」とは言わせない。 そうしてワイシャツのボタンへ伸ばしたわたしの手は、しかし蔵ノ介の手によって阻まれた。 「ちょ、何しとんねん!!?」 「服を脱がさなければ肌を拭けないだろう。――― ああ、その前に湯を沸かしておいた方が効率的だな。あとは湯たんぽと、毛布も探して」 「ちょお待て、待った。わかったから、じっとしとってや……」 何故か狼狽する蔵ノ介は、立ち上がったわたしの腕を掴んで引き止め、ため息を一つ。 そして蔵ノ介もまた立ち上がり、その丸椅子にわたしを座らせるとまずは薬缶を火に掛け、次にタオルが仕舞われた棚から新たに一枚のタオルを。別の棚から金属製の湯たんぽとそのカバーを。最後に外面を取り繕う仕切りの向こうへ消えて毛布を。 それぞれ迷いのない足取りで真っ直ぐ各収納場所へ向かい、手にして戻った。 「ちぃとあっち向いとき」 「? 何故だ?」 「……もうええわ」 よくわからないが、蔵ノ介はわたしに背を向けてワイシャツを脱ぎ、押し付けたタオルで身体を拭いた。そして新たに用意したバスタオル大のタオルを肩に羽織るように掛け、振り返ってわたしと目が合うと顔を顰める。 先程から一体何なんだ。そう訝っていると、長椅子に腰を下ろした蔵ノ介はタオルに重ねて毛布も羽織り「これでええやろ」、返事を聞くことなくわたしの肩を掴んで再び反転させた。丸椅子は回転式のため、あっさり蔵ノ介に背を向ける形になる。 そしてタオルに挟んだ髪をとんとん叩く、優しい音が上がった。 しばらくして湯が沸くと音は一旦止んだが、すぐに再開される。 「……寒くはないか?」 「お蔭さんで平気や。は?」 「大丈夫だ」 「さよか、そらよかったわ」 それから何となく言葉が続かなくて、わたしたちは共に沈黙した。 借りたハンガーに干し、正面のカーテンレールに吊るした蔵ノ介の学ランを、わたしはぼんやりと見つめていた。 「――― すまんかった」 そんな中での、唐突な謝罪だった。 「今回のことは俺の監督不行き届き、指導力不足や。財前のことも、ファンクラブが危険なんを知って野放しにしとったことも。部長の俺がしっかりせなあかんかったのに……。俺の所為でをこないな目に遭わせてもうて、ほんまに、すまんかった」 「……その謝罪はお門違いだ」 ぴたり、蔵ノ介の手が動きを止めた。 「これは非公式団体が勝手に仕出かしたことだ。連中が蔵ノ介たちを偶像化し、妙な制約を設け、身勝手な理論を振り翳しているに過ぎない。あの青二才のことも、これはあれが自分で気付かなければならない問題だ。蔵ノ介が気に病むことではない」 「せやかてっ、何でがこないな目に遭わなあかんねん!」 「……放っておけなかったからだ」 あれが単に同じ委員会に所属するだけの後輩だったのなら、いくらなんでも、こんな目に遭う前に打てる手は打っている。 だが“財前光”は蔵ノ介や小春、一氏と同じテニス部でありレギュラーである後輩で、いくら世話好きとはいえ、小春がとても優しい表情を浮かべて気に掛ける存在だ。不愉快にも利用され、その傲慢さが鼻についたのと相俟って、いい機会だと思った。 今ここでどうにかしなければ、あれは同じ過ちを繰り返す。そしていずれ守るべき存在ができた時、自らそれを傷付けることになるだろう。だからその前に自覚させようと考えた。 幸か不幸かこの手のことにはいくらか耐性がある。所謂呼び出しというもので多勢に無勢となっても、切り抜け、逆に打ち負かす自信があった。尤も人目が多い昼休みに、まさかこのような強行に出られるとは予想していなかったが。流石に油断していた。 「そういう、わたしの自分本位が原因なんだ。蔵ノ介が罪悪感に囚われる必要はない」 「……ちゃうやろ、のあほ」 弱々しく力のない罵倒は声が震え、まさか泣いているのではなかろうかと、わたしは振り返ろうとした。 しかし寸前のところで、身体の両脇から伸びた腕が後ろからわたしを囲い、首筋を柔らかな髪が撫でた。半ば伸し掛かる背中の熱はあつく、少し震えている。肩口から浸透する吐息もまたあつい。 わたしは重心を後ろに傾け、首もまた傾けて、肩に乗る蔵ノ介の頭に頬を寄せた。 転じた先に君は在り*100415
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