――― 状況の急変。それは正に不意打ちだった。

 約束している訳ではない小春と一氏と三人で過ごす昼食を終え、教室に戻った後。わたしは手洗いに立った。
 しかし教室から近い手洗いは異常な混み具合で、残り時間を考慮したわたしは、反対の一組側の手洗いへ向かった。距離的には一階上へ行く方が近いのだが、そこは二年の教室が立ち並ぶ階だ。人が多い昼休みには流石に行き難い。
 だからこちらのクラスの人間に用がない限り滅多に訪れないが、同じ階ということで幾分気が楽な一組側に行くことを選んだ。出入口で鉢合わせた子に進路を譲って入れ違いになると、幸いこちらはガラガラだった。

 一番奥の個室に入ったところで、慌しい足音と、手洗い場の戸を乱暴に開ける音がした。
 それからすぐに、わたしがいる個室の戸に、ガタガタと何かがぶつかる音がする。不思議に思っていると、蛇口から勢いよく水の出る音と、それを恐らくバケツにでも溜めているのだろう音もした。
 そして、個室から出ようと鍵に手を掛けた瞬間、だった。

「――― ッ!!?」

 ザバアッ、と。実際にはそんな生易しい音ではなかったが、頭上から突如水が降って来た。おまけにバケツも。出ようとして丁度戸の近くにいた為に、どちらも脳天に直撃だ。冷たいし痛いし、少しの間わたしはその場に蹲って悶えた。
 そしてふと我に返って客観的になった時、わたしがまずしたのはくしゃみだった。
 一体どれだけの量の水を掛けられたのか、頭から被った所為もあって髪はびしょ濡れだし、制服は肌に張り付いて気持ち悪い。しかし正に降り注いだ災害に傷付くより呆れるしか出来ない辺り、我ながら何とも言えない。

 一先ずここから出ようと鍵を開けたが、戸はほんの一センチほどしか動かなかった。どうやら先程の戸に何かがぶつかる音は、つかえを立てる音だったようだ。
 仕方がないので蝶番や鍵の出っ張りに足を掛けてよじ登り、天井との隙間から外に出る。閊えになっていたのはトイレ掃除用のデッキブラシと椅子だった。椅子は踏み台代わりにもしたようだが、一体どこの教室から持ち出したのやら。あまりに準備が良過ぎることから計画的な犯行と見ていいだろう。やはり呆れるしかない。
 デッキブラシと椅子を取り除き、手を洗って可能な限り制服の水気を絞ってから、バケツ共々抱えて外に出る。
 バケツとデッキブラシは掃除用具のロッカーに片付けたが、椅子は出所不明なので、取り敢えずその隣に寄せて置いた。

(さて……)

 手洗いから人が出てきた。通常なら何でもない景色の一部だろうが、その人物が頭からびしょ濡れになっているとあって、今のわたしには異常なまでに視線が集まっていた。終わりが近いとはいえ、昼休みという時間帯の所為もある。中にはわたしの有り様を嘲う女子生徒からの視線もあったが、わたしはそのいずれも気に止めなかった。
 廊下を濡らすことを申し訳なく思いながら、一先ず教室に向かって歩き出す。午前中の授業で使用したジャージを取りに行くためだったが、タオルを借りに保健室へ行くには、位置的にどの道、教室の方へ向かう必要があった。

「――― っ!!?」

 そして二組の教室の前を通り掛った時。この二年と少しの間、学校では一度として巡り合わなかった声に名前を呼ばれた。驚きのあまり足が止まる。そして振り返ると声の主が ――― 蔵ノ介が、二組の教室から転がり出てきたところで。
 驚愕のあまり立ち尽くすわたしの許に駆け寄って来た蔵ノ介は、呆然と見上げるわたしの頬に触れると顔を顰め、視線を外した。何を映しているのかはわからないが、その視線は対象を射殺さんばかりに鋭利だった。息を呑む。しかし再びわたしを映したその眼差しに、今し方までの面影は一切残っていなかった。
 そして学ランを脱いだ蔵ノ介がそれをわたしの肩に羽織らせたところで、わたしは我に返った。

「い、要らない、必要ない!」
「ええから羽織っとけ」
「だが濡れてしまうし、わたしに貸したら蔵ノ介が寒いだろう」
「こンの、どあほ!! そないな格好して人の心配しとる場合か!? ええから黙って言うこと聞けや!!」

 怒鳴られ、また息を呑む。その言葉、語気、視線、空気。――― すべてが蔵ノ介の怒りを物語っていたから。初めて目にする蔵ノ介の明確な“怒り”だったから。
 わたしが身を硬くして抵抗を止めると、その隙を衝くように蔵ノ介はわたしの背中と膝の裏に腕を回した。そして不意に訪れた浮遊感に驚き、わたしは咄嗟に近くのものへ、蔵ノ介の首へ腕を回してしがみ付いた。だが自分が今ずぶ濡れであることをすぐに思い出して、その肩に手を置いて腕を突っ張る。

「お、降ろせ蔵ノ介! お前まで濡れて」
「あかん。ええから大人しくしとかんと、ほんまに怒るで」
「……もう怒っているだろう」
「……チャン?」

 擬音を付けるなら、にっこり。
 一見すると爽やかな笑みだが、同時に何故か物凄く迫力がある笑みに、わたしは大人しくなる他なかった。

「わかればええんや。――― 謙也、俺のジャージ取って来てくれへんか」
「! おっ、おお!」

 蔵ノ介に突然声を掛けられ、驚きながらも反応した金髪の男子生徒は、確かテニス部のレギュラーの一人だったはずだ。蔵ノ介を追って出てきたのか、教室の戸の前にいた彼は慌てて中に駆け戻る。
 そして戸の前にはもう一人、三年の教室が並ぶこの階には異質な二年生 ――― 財前光の姿もあった。どうして彼奴がここにいるのか首を傾げるが、部活の先輩の許を後輩が訪ねるのは、別に何ら不思議なことではないと思い直す。

 金髪の男子生徒が持って来たスポーツ用品店の名前が入ったビニール製の袋を、わたしを抱えて両手が塞がっている蔵ノ介に代わって受け取る。
 そして蔵ノ介は金髪の彼にわたしを保健室に連れて行くと言付けて、最初とは違う理由で注がれる視線を物ともせずに早足で廊下を進んだ。現場を離れるにつれ、状況を把握していない人間からの視線が痛かったのは言うまでもない。
 八組の教室の前を通った時、廊下の窓越しに目が合った一氏と小春の、驚愕した視線も、また。

 ――― そして昼休み終了を告げる本鈴が鳴り響いた。
下り坂が起こす悲劇*100404