関東から関西への引越しと、小学校から中学校への進学。人より著しかった環境の変化に適応する一環として、校則に定められる運動部と文化部の兼部の他に、委員会活動にも所属した二年前。
 思えばこの時、わたしの向こう三年間は決まっていたのだ。
 我々の入学と同時に着任し、所属する図書委員会の顧問となった鹿又司書に何故か気に入られたことも。当時は一年間限りのつもりで入った委員会が、現実では今年で三年目を数えることも。そんな経歴だけを理由に、顧問から直々に委員長に任命されたことも。すべてはあの時からの決定事項にして、年単位に及ぶ陰謀だったのだ。

ちゃ〜ん、これ今度の新刊のリストな〜。明日の昼にはいつも通り事務室に届くさかい、後は頼んだで〜」

 なんて、不可抗力にも耳慣れた間延びした口調で仕事を押し付けられていることが、何よりの証明ではなかろうか。
 先代、先々代の委員長並びに副委員長、及び他の委員たちより多くの仕事を回され、体のいい雑用係にされていたのは、この時に向けた仕込みだったのだ。追及したところで尤もらしい言い訳を並べ、逃げられるのがオチだろうが間違いない。
 鹿又司書とはそういう人間だ。今までの付き合いで、嫌というほど知っている。

(尤も、それを理解しながら踊らされているわたしもわたしだが……)

 しかしあちらもえげつない。
 結局断れないわたしの性格を把握した上で、わたしに可能な、微妙なところの仕事を寄越すのだから。全く以て性質が悪い。


「ありがとう、一氏。お陰で助かった。取り敢えずそこの机に置いてもらえるか」
「おう。しっかし、鹿又の奴は相変わらずヤなやっちゃな……」

 放課後の時間を部活動に当てる利用者が、貸出と返却のために押し寄せる峠を越えた昼休み後半。図書室には片手で足りる数の人が疎らにしか見られなかった。常駐しているはずの司書の姿も見られない。
 一氏は出入口近くの机に置いた自分が運んだ段ボール大小二箱と、わたしが運んだ小振りの一箱を一瞥して、司書への悪態を吐き捨てるように呟いた。彼が女のわたし一人に任せる量ではない仕事を寄越すのは、一氏が手伝ってくれることを前提していると、知っているからこその悪態だ。
 それでも抗えない一氏の優しさに付け込む辺りが、あの人は本当にえげつない。だから一氏は鹿又さんを嫌い、あの人が関わる言動には常に険が混じる。

「ほんまに一遍ど突いたろか」
「形として一応止めておくが、実行する際は是非とも全身全霊で頼む」
「言われるまでもあらへん、全力で行かせてもらうわ」

 とは言いつつも、一氏が実行に移すことは恐らくないだろう。恐らくは。
 だからこそこの軽口の応酬が存在し、わたしと一氏のスキンシップになっているのだ。本当は寂しがり屋の癖に素直ではない一氏とは、このくらいの温度で交わすやり取りが丁度いいのである。

 そんな一氏の視線が、ふとわたしからわずかに逸れて後方に移った。――― 瞬間、一氏は瞠目する。
 変わった校風の学校とはいえ普通の図書室だ。一体何をそんなに驚くことがあるのか。その視線をたどって振り返ろうとして、刹那。

「――― ユウジ先輩?」

 耳慣れない、だが知る声だった。
 振り返った先には、先程室内を見回した際、視界の端を掠めていた姿があった。

「光……、自分何でこないなとこにおんねん。図書室来るキャラちゃうやろ」
「委員会の当番っすわ。先輩こそ図書室来るタイプとちゃいますやん」

 ――― 財前、光。
 処理カウンター内の椅子に腰掛け、装着していたヘッドホンを外して首に掛けながら欠伸を噛み殺す彼奴は、あの日と同様に不遜な空気を纏っていた。機嫌を掠めた不快感に、ほんの一瞬頬が引き攣る。
 一方で、彼奴は眉間に堂々皺を刻む視線を、わたしと一氏へ交互に向けた。一氏がわたしといることか、或いはその逆か。はたまた別の何かへか。疑問の色が見えた。しかしわたしには、それに応える意思は毛頭ない。彼奴への興味もだ。
 だから早々に視線を逸らし、一氏に戻した。

「わたしはこのまま、時間が許す限り作業を続けるが、一氏はどうする?」
「……あ、あー、まあ乗り掛かった船や。どうせやし手伝ったる、感謝しぃや」
「恩着せがましいな。だが助かる、ありがとう」

 聊か言動がぎこちない一氏だったが、わたしは敢えてそこには触れず、早速作業を開始させた。

 今年度からその管理が電子化された図書室では、本と生徒にそれぞれ振り分けられたバーコードを読み取るだけで手続きが可能になり、作業効率が上がった。尤も電子化するに辺り、元ある蔵書すべてにバーコードを貼り付ける作業と、書籍情報をパソコンに入力するという頭の痛くなる作業があった訳だが。あの時もわたしは体よく使われたものだ。
 お陰で哀しいかな作業が手馴れているわたしに、一氏は同情の眼差しを向けてきた。放っとけ。
 しかしそれでなくとも、昨日の放課後の当番中に新刊の入荷リストを渡され、入力作業だけは事前に済ませていたので、この時間の仕事は比較的楽なものだった。

 そして一氏がまごつきながらも最後の一冊にバーコードを貼り終えた、丁度その時だった。

「お〜、ちゃん。ご苦労様〜。一氏くんもお疲れ〜」
「…………

 準備室とは名ばかりに、司書の私室と化している隣の部屋から問題のその司書、鹿又さんが顔を出した。
 どうせ今の今まで、勝手に持ち込み日当たりのいい窓辺に設置したソファーで寝ていたのだろう。後ろ髪に枕代わりにしている肘置きの跡が付いている。今に始まったことではないが、人に仕事を押し付けて、一体何という体たらくだろうか。
 この所業に一氏は当然怒りを浮かべ、地を這うような声でわたしを呼んだ。その視線にわたしは首を振る。鹿又さんに味方しているつもりもその意思もないが、構うだけ無駄だ。寧ろ余計に逆撫でされる。ここは無視することが賢明なのだ。

「もしも〜し、無視ですか〜? 二人が仲ええんは知っとるけど、アイコンタクトで意思疎通て、オレだけ除け者かいな〜」
「さて、一氏。そろそろ予鈴が鳴るし、教室に戻るか」
「せやな。次の授業は……古文やったか」
「わたしは英語だ。そういえば小耳に挟んだ話だと、今日六組で数学の抜き打ち小テストがあったらしいな」
「げっ、ほんまか? こっち六時間目数学やで」
「――― ちょ、待って!! 頼むから無視せんといて!」

 最後の一冊を段ボールに戻す片付けを行いながらの会話に、鹿又さんが割り込む。
 しかも言葉だけではなく身体ごと、わたしたちの間に割り込んできた。これでは流石に無視できない。

「だあああ! 自分うっといねん!!」
「あだっ!!? ちょっ、一氏くん?! オレ先生なんやけど!!」
「そうだぞ、一氏。確かに鹿又さんは、人を顎で使って自分は惰眠を貪る駄目な大人で、報酬に見合うだけの働きをしない給料泥棒で、どこを取っても尊敬に値しない大人だが、これでも一応目上だ。敬えとは言わないが敬語を使っておくのが無難だ」
「え、ちゃん? それってフォローなん? ど突くのは容認? オレには貶しとるようにしか聞こえへんのやけど……」
「事実を述べただけです。貶されたと感じたのなら、一度我が身を省みるべきかと」

 ずばり言い切ると、鹿又さんは「ぐはっ!!」と胸を押さえてふらつき、カウンターに手を付いて項垂れた。
 一方、一氏には「ナイスや!」と、鹿又さんをど突いた手で親指を突き立てられる。清々しいまでの満面の笑みだ。

ちゃんも一氏くんも、なんて酷い奴らなんや。くっ、自分はオレの味方やよな?! えっと ――― ゼンザイくん!」
「財前っすわ」

 すると鹿又さんは新たな人間を巻き込むことで、自身に向く矛先を逸らそうと考えたらしい。
 手近にいた人間 ――― 財前光に話を振り、しかし名前を間違うという初歩的な失態を犯した。馬鹿過ぎる。

「委員の名前を間違うとは、顧問として最低 ――― 愚の骨頂ですね。尤も司書としての本分を全うせずに、何もかも人に押し付けているのだから当然ですが。実に嘆かわしい。何より腹立たしい。正直わたしも一発くれてやりたい」
「……、自分キャラ変わってんで」

 それだけ日頃の鬱憤が溜まっていると言うことだ。
 鹿又さんの駄目人間振りには諦観こそしているが、憤りを覚えていない訳ではないのだ。寧ろ日々蓄積されている。

 ――― するとその時、昼休み終了五分前を知らせる予鈴が鳴り響いた。
 これを好機と見たのだろう。鹿又さんはわたしたちの背中を押して、早く教室に戻るように捲くし立てた。他の利用者たちはいつの間にか既に退室しており、背後で勢いよく閉められた扉には、更に鍵が掛けられた。……逃げたな。

「鹿又の奴、逃げよった」
「そういう人だ。さて、今度こそ戻るか。――― 嗚呼、委員会活動ご苦労だった」

 歩き出す直前、見やった男に一言だけ告げて、わたしは歩き出した。
 一氏も「ほな財前、放課後な」と告げるとすぐにわたしの隣へ並び、残り少ない時間、わたしたちは早足で廊下を進んだ。
目に見える落差*100403