その日帰宅すると、玄関には我が家では見慣れない、男物の運動靴が存在していた。見覚えはある靴だ。 端に寄せて並べられているその隣に、脱いだわたしの靴も並べてから、スリッパを履いて奥へ向かう。すると台所から丁度顔を出した母と鉢合わせた。「ただいま」と「おかえりなさい」の挨拶を済ませ、わたしはすぐ脇の階段を見上げる。 「来ているの?」 「ええ、一時間近く経つかしら。早く行ってあげなさい」 頷き、うがいと手洗いを先に済ませてから二階に上がる。廊下の突き当りがわたしの部屋だ。 しかし来客がいるはずの部屋には電気が点いていなかった。カーテンが開けっ放しの窓から頼りなく差し込む月明かりにぼんやりと照らし出されている室内を見回しても、それらしい姿はどこにも見当たらない。物音もしないし、妙だな。 ところが電気を点けると、それらの謎は一気に解決した。 「蔵ノ介……?」 枕に顔を埋める形でうつ伏せになり、規則正しい呼吸を繰り返している様子からして、どうやら寝ているらしい。 すぐ隣の自宅に帰らず学校から直接こちらに来たのか、部屋の片隅には彼の荷物があり、制服姿のままだ。女ながら華がなく物が少ない部屋の中央のガラステーブルには、口を付けた形跡のない冷めたお茶が乗っている。 ――― 彼の名は白石蔵ノ介。同じ四天宝寺中学に通い、例のテニス部で部長を務めている人物だ。 そして越してきたこの家の隣に住む白石家の御長男で、いつの間にか茶飲み友達になっていた母親同士の繋がりから、家族ぐるみの付き合いをする間柄にある。しかし仮にも異性の部屋のベッドで堂々寝るほど、親密な関係ではない……はずだ。 (言い切れないのが哀しいな……) この二年と少しの間に起こった遣る瀬無い出来事の数々を思い出すと、一概に否定できないのが実状だ。 勉強机に鞄を置き、カーテンを閉める。それからベッドに近付き、肩を揺すりながら何度か呼び掛けてみたが、蔵ノ介から返されるのは相変わらず規則正しい寝息ばかりだ。こんな寝苦しい体勢にも関わらず、どうやら相当深い眠りらしい。 二年の頃から務める強豪校の部長という立場に気を張り詰め、その責任と負けず嫌いな性格から、毎日人一倍練習に励んでいる蔵ノ介のことだ。疲れが溜まっているのだろう。昨年の雪辱を果たすために励む様は感心するし応援するが、しかし現状を見ると呆れてため息しか出ない。ふと目に止まったシーツとは異なる白を見ると、ますますそう思う。 あれはほんの一ヶ月ほど前 ――― 春休み中だった。休み中も行われるテニス部の練習に加え、夜遅くまで自主練習に励んでいた蔵ノ介は遂に手首を痛めた。原因は言わずもがな、過度の練習が手首の負担になったためだ。 幸い重傷ではなかったものの、あの時の蔵ノ介は見るに絶えない有様だった。 湿布を固定するために巻いていた包帯を、完治した今も何故か巻き続けているのもまた、当時を思い出させていい気がしない。触れた時の手触り、感触も好ましくなかった。 「同じことを何度も言わせてくれるな」 そう呟いて、ミルクティーに似た色素の薄いサラサラの髪を労わるように撫でた時だった。 「――― ぅん……、なん、や……?」 鼻から抜けるような呻きが聞こえたかと思えば、寝起きで掠れた声が上がった。 いずれも枕に顔を埋めているためくぐもり、それが息苦しかったのだろう。首だけ動かして横を向き、ようやくお目見えした蔵ノ介の顔には枕の跡が付き、少し赤くなっていた。思わず噴き出してしまう。 するとその音に反応したのか、蔵ノ介は視線だけを動かし、まどろみが見えるその瞳にわたしを映した。 「おそよう、蔵ノ介」 「……? 何で、がおんねん……?」 「わたしの部屋だもの、当然でしょう」 「の、部屋……? あ、あー……」 常になく反応の鈍い蔵ノ介だったが、徐々に覚醒し、頭が回り始めたのだろう。 意味なく母音を伸ばしながら再び枕に顔を隠して沈黙。――― 瞬間、蔵ノ介は勢いよく起き上がった。 「っ、すまん!! のこと待っとったらその、眠くなってもうて……!」 「いや、疲れているのでしょう? それなら仕方ないよ。わたしこそ、待たせた挙句眠りを妨げてしまってごめんなさい」 「そ、そういうコトやのうて!」 では、一体どういうことだ? 突然起き上がったかと思えば転がるようにベッドを降り、フローリングの床に正座する蔵ノ介に、わたしは首を傾げる。 気のせいでなければ、先程とはまた別に蔵ノ介の顔色が赤いが、熱でもあるのだろうか。温かい春の気候とは言え陽が暮れれば気温はぐんと落ち込む。何も掛けずに寝ていた身体が冷え、もしかしたら風邪を引いてしまったのかもしれない。 そう考えて熱を測ろうと伸ばした手は、蔵ノ介の額に触れる寸前でその左手に掴まれ、動きを止められてしまった。包帯の感触につい顔を顰める。 「だ、大丈夫やから」 「説得力が全くない顔色だけど」 「ほんま一時的なもんやし、頼むから触れんといて……」 よくわからないが、しばらくすると蔵ノ介の顔色は確かに落ち着いてきた。本当に何だったのだろう。 疑問は残ったが頑固な蔵ノ介のことだ。問い詰めたところで口を割らないことはわかり切っているため、わたしはこれ以上の言及を避けた。それに今は、他にも気になることがある。 「それで? 蔵ノ介の用件は?」 「あ、ああ。その……に、訊きたいことがあってん」 「訊きたいこと? 内容は?」 「その、あー、えっと……」 本題を切り出して訊ねれば、蔵ノ介は途端に落ち着きを失った。 冷たい床から柔らかいベッドの上へ促しても頑として動こうとしないため、せめてクッションを下に敷かせ、そこに胡坐を掻いた膝の上の手が意味を見せずに動く。煮え切らないな。すぐ隣の自宅へ帰らずに訪ねたくらいだ。急ぎではないのかと怪訝になる。 「そんなに訊き難いことなの?」 「訊き難い言うたら、まあ、その……」 「でもわざわざ家に来るくらいだから、大事なことではないの?」 「大事ちゅうか……」 蔵ノ介が俯くと、ベッドの縁に腰掛けるわたしからはその表情が見えなくなる。 常ならざる蔵ノ介の姿に次々と疑問が湧くが、わたしは蔵ノ介が口を開くのを待った。――― と、その雰囲気が一変する。直向きな視線が注がれ、決意に満ちた蔵ノ介の表情に応えて背筋が伸びる。すると蔵ノ介の唇がゆっくりと動いた。 「――― 」 「はい」 「財前と付き合うてるって、ほんまなん?」 「…………、は?」 一瞬何を言われたのか解せなかった。 呆けたわたしは、だが反対に真剣な表情を崩さない蔵ノ介の言葉を理解すると同時に、思い切り顔を顰めた。 「蔵ノ介、まさか貴様までそのような戯言を信じているのか?」 「いや、信じてるっちゅうか信じたくないっちゅうか……。けど戯言ちゅうことは、噂はガセなんやな?」 「ああ。昨日あれが告白されている現場に偶然居合わせ、断る理由に利用されただけだ。あの生意気天狗小僧、周囲に煽てられ驕り猛々しい。思い出しただけで 「それは……スマン」 視線と共に肩を落とした蔵ノ介にはっとする。 しまった、これでは遠回しに蔵ノ介を非難し、八つ当たりしただけだ。 「いや、わたしの方こそごめん、今のは完全に八つ当たりだ」 「いや、俺こそいきなりすまんかった」 「別に構わないけど、それを訊くためにわざわざ来たの?」 「まあ、せやな。にも財前にもそないな気配あらへんかったから、今朝噂聞いてびっくりしてな。気になってん。せやけど真相が聞けてすっきりしたし、そろそろ帰るわ。長居してすまんかったな」 「夕飯は食べて行かないの? 多分母さん、蔵ノ介の分も用意していると思うけど」 立ち上がった蔵ノ介は壁際に置いてあったテニスバッグを背負うと、苦く笑って首を振った。曰く迷惑になるからとのことだが、これまでにも散々あったことだし、そんな遠慮は今更な気がする。 しかし本人が帰ると言うのなら無理に引き止める訳にはいかない。蔵ノ介を見送るため、共に部屋を出て階段を下りる。すると一階に着いたところで母と再び鉢合わせ、母は「丁度良かったわ」と笑った。 「今呼びに行こうとしていたところなの。ささっ、冷める前に蔵ノ介くんもどうぞ」 「いや、折角ですけど家に何の連絡もしてへんので……」 「あら、それなら私がしておいたから安心して頂戴。ほらほら、早く!」 父は帰りが遅い人だから、普段はわたしと二人きりで過ごしている食事の席に、人が増えることが純粋に嬉しいのだろう。それでなくとも母は蔵ノ介を気に入っているから、喜ばないはずがない。 嬉々としている母の姿にわたしは笑い、戸惑っている蔵ノ介に向かい「ほらね?」と視線を投げ掛けた。それに気付いた蔵ノ介は苦笑する。 「わたしは着替えて来るから、先に行ってて。ゆっくりして行ってね」 「……おう」 蔵ノ介の返事を聞いてからわたしは踵を返して、下ったばかりの階段をまた、今度は早足で上った。 あ、手付かずのお茶、持って下りて来ないと。 隣の御長男様*100319
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