翌朝登校したわたしを出迎えたのは、予想に違わない、針の筵のような視線の集中砲火だった。
 漏れ聞こえる囁きから察するに、どうやら昨日のことは早くも学校全体に広まっているらしい。放課後になって大分経った頃、人気がない場所で起こった出来事だというのに随分回りが早い。この手の話題に関する女子の情報網には舌を巻くものがあるとはいえ、いくらなんでも噂になるのが早過ぎるだろう。
 つまり噂は意図的に流されたと見て間違いない。そして情報源は限られ、故に犯人は考えるまでもない。ただそこに一体どんな意図があるのか、それだけが理解できなければ、理解したくもなかった。

ちゃ〜ん!」

 教室に到着しても煩わしさは収まる気配がなく、わたしは得意の能力を遺憾なく発揮することで、それらを受け流していた。しかし耳馴染みのある声に名前を呼ばれたのには思わず反応して、顔を顰めてしまう。
 交友関係がそれほど広くないわたしの知り合いは、わたしの人間性を正しく理解してくれている者ばかりだから、この馬鹿げた話題に触れてくる人間はいないと思っていたのだが。そういえばこの手の話題が大好物の例外が一人いたことを失念していた。

「……おはよう、小春」
「おはよう、ちゃん! それより聞いたでぇ〜! まさかちゃんが光と付き合っとったなんて、アタシとちゃんの仲やのになんで教えてくれへんかったん?!」

 ほんのり赤らめた頬に手を当てて身体をくねらせ、間にある机を物ともせずに迫る友人、金色小春の勢いに気圧された身体が咄嗟に逃げに走る。背中を背凭れに押し付けて可能な限り仰け反らせ、しかし引き攣る顔はどうしようも出来ない。
 性別が男なのだから男らしいのは兎も角、何故かわたしを含めたそこらの女子よりも女の子らしい小春は、こと恋愛話には目がないのだ。特に渦中が恋愛話とは全く無縁なわたしとあっては放って置くはずがなかった。

 しかし生憎だが、小春の期待にはいろいろな意味で応えることできない。

「教えるも何も、その話は ―――」
「おいコラ! 俺の小春と何いちゃついとんのや!! 死なすど!?」

 思い出すだけ不愉快極まりない話題だ。こんなことで付き纏われるのも根掘り葉掘り訊かれるのも御免だと。こちらに注目している周囲に聞かせる意味も込め、この場を借りて虚偽を主張しようとしたところ、しかし邪魔が入った。
 まるで図ったかのような間合いでわたしの言葉に重なり遮ったのは、小春以上に聞き馴染みのある声だった。

 小春をわたしから引き離し、背中に庇うように割って入った一氏ユウジに睨み付けられて、ついため息が零れる。
 小春を遠ざけてくれたのは有り難いが、迫っていたのはわたしではない、小春の方だ。だから睨むな。ガンを飛ばすな。
 ただでさえ釣り上がり気味の目と額に巻くバンダナの作る影がキツい印象を与えるのに、わたしを睨み付けている所為で悪化しているぞ。貴様は一体どこの不良だ。

「おはよう、一氏。話の邪魔だ。黙るか消えるか、どちらか選べ」
「おうっ、そらこっちの台詞や! いくらでも小春は渡さんで!!」
「止めんか一氏ぃぃぃ!!!」

 ――― スパァァァン!!

 小春がどこからか取り出したハリセンによる強烈な一撃が、無防備だった一氏の後頭部を襲った。厚紙にあるまじき音が不自然に静かだった朝の教室に響く。一氏はその場に蹲って悶え、攻撃の瞬間を目撃してしまったわたしは頬を引き攣らせた。
 日頃と大差ない応酬だった。小春もそれを承知しているはずなのに、今回はどうしてそんな強烈な突っ込みを入れたんだ。

 理由を訊ねる前に予鈴が鳴った。小春が舌打ちする。
 女より女らしいが、それ以上に男らし過ぎる男だ。結局どんな設定を目指しているのかも理解に苦しむ。

「一氏が邪魔した所為で時間切れや、このアホンダラ!」
「いっ!? こ、小春ぅぅぅ!」
「止めろ小春。噂は事実ではない。それが答だ。だから今回は退いてくれ」

 一撃目と同じ箇所を再び叩かれ、ますます涙目になった一氏が憐れでならない。
 ハリセンを掴んで止めに入り、最初とは形が異なるがどうにか虚偽を主張できたわたしは、端的な回答に不服そうな小春の背中を押し、腕を引っ張り上げて立たせた一氏共々廊下へと連れ出した。

「ほら、担任が来る前に教室へ戻れ」
「んもぅ、ちゃんのいけずぅ! 後でどういうことかきっちり聞かせてもらうでな、逃げたらあかんで!!」
「わかったから、早く行ってくれ」

 ここで断れば折角回避した鬱陶しさが目に見えているため、御座なりに近い返事にせめてもの抵抗を込めて、わたしはしっしっと手を振った。根掘り葉掘り訊かれる前に、こちらから吐き出した方がいくらかマシというものだろう。
 未だ頭を押さえている一氏には「昼にまた」と告げて、やや持ち直した現金な背中が隣の八組の教室へ消えるのを見送ってから、わたしは自席に戻った。ため息に重なるように本鈴が響く。

(これでいくらか収まればいいが……)

 先の主張を聞いて登校時よりも一層騒がしくなった周囲から、今朝の噂を否定する噂が再び広まるのはどれくらいの時間を要するのか。そしてどれほどの効果を齎してくれるのか。
 下手に煽らなければどうせすぐに鎮静化するだろう。七十五日も待つ必要はない。わたしには後ろめたいことなど一切ないのだから、堂々としていればいいだけだ。

 しかしいくら得意の能力を遺憾なく発揮し、周囲の囁きを軽く受け流していても、実はそれらには限界がある。“受け”流すということは、好き勝手に騒ぐ罵詈を一度はこの身に入れているということだ。
 刃物より余程鋭利な言葉という刃は、相手にその意思がなくとも容易く人を傷付ける。それで無傷でいられるほど人は、わたしは強い人間ではない。


「ほなちゃん。どういうことか説明してもらいましょか!」

 遮るものがないため今朝以上に迫る小春と、今朝の一撃が未だ堪えているのか割り込めずにやきもきしている一氏。
 四時間目が終わるなり現れた二人に拉致同然で屋上に連れて来られ、相変わらずの二人に挟まれてほっと肩が下がる。
 状況を悪化させないためにも、脱出しようと思えば脱出できた環境から敢えてそうしなかったのだが、どうやら心労は自覚しているよりも酷かったらしい。喧しく騒がれて安堵を覚えるなんて、わたしも毒されたものだ。

 額を押して小春の身体を押しやり、宥めるように一氏の肩を叩く。
 そして一度深呼吸して気持ちを切り替える。

「説明が先。質問の受け付けは後だ」
「わかってるわよ〜! で? で!? どういうことなん?!」

 小春に急かされ、正直なところ思い出したくないが、わたしは昨日の出来事を順を追って話した。
 昨日の放課後、ごみを捨てに構内の集積所を訪れていたこと。そこで偶然あれが告白を受けていたこと。食い下がる相手を諦めさせるために利用されたこと。あれの不遜さに腹が立ち手を上げて一喝してやったこと。包み隠さずにすべて話した。
 すると心なしか小春は頬を引き攣らせ、一氏はまるで脅えたように縮こまった気がする。何だその反応は。

「そら、……ウチの子がすまんかったわ。後でアタシからしぃ〜っかり言い聞かせとくさかい、堪忍してや」
「……小春に謝罪される謂われはない」
「せやけどちゃんが光と付き合っとる聞いて、実はウチごっつ嬉しかったんよ」
「――― は?」
「どどっどういうことや小春!?」

 一氏に同感だ。突然何を言い出す。
 詰め寄った一氏を後頭部の次は鳩尾への一撃で沈めた小春は、空咳の後に「あんな」と言葉を続けた。

「光っていっつも眉間に皺寄せとるし無愛想やから、周りに敬遠されとるんよ。女の子はそこがクールでええっちゅうけど、男の子からは印象悪くてな。せやからちゃんと付き合うとる聞いて、光にはええ刺激になるんやないかと思てん。まあさっきの話聞いた限りやと、思っとったんと違う形で刺激になったみたいやけど、な?」

 ふむ、成る程。そういえば小春と一氏もテニス部のレギュラーだったな。
 小春は面倒見がいいから、ああいう性格の人間には構いたくて仕方ないのだろう。しかしあれはクールとは言わない。わたしに言わせれば、あれは生意気を通り越して小憎たらしいだけだ。
 小春の言葉に思うところがあって考え込んだわたしに、小春は「ええんよ、ちゃんが気にせんで」と苦笑した。

 確かに今はあの男よりも、未だ蹲っている一氏をどうにかすることが先か。
 わたしはせめてもの慰めに、一氏の好物であるオクラを刻んで混ぜ込んである特製の卵焼きを一氏の前に差し出した。
手痛い愛に同情を捧ぐ*100314