わたしの中学進学と同時に、わたしたち一家は父の仕事の都合で東京から大阪へと引っ越した。二年前の話だ。
 テレビでしか聞く機会がなかった大阪弁の迫力と、大阪人の気質か言葉から受ける印象の所為なのか、オブラートに包まない直接的な物言いに引っ越した当初は戸惑ったものだが、今ではすっかり慣れてしまった。いや、正確には気にすることを止めた瑣末である。
 事態の内側より外側から事の成り行きを眺めることを好む気質のわたしにとって、その辺りの切り替えは造作もない。
 どんな厄介事や面倒事が目の前で起こったとしても軽く受け流す。その能力があって初めて、わたしは第三者でいることができるのだから。

 そういう訳で大方の察しがついていると思うが、一部の例外を除き、わたしは目立つことが嫌いだ。
 だからこそ特殊な校風を持つここの環境に、こんな性分ながら溶け込んでいるのだ。

 すべては平穏無事な日々を送るために。


「詰まる話、現状はわたしにとって実に好ましくないということだ」
「はあ、そーっすか」

 言葉の端々に隠しきれない苛立ちが滲むわたしに、彼奴きゃつはその気怠げな表情に伴う気のない返事を寄越した。たった一歳違いとはいえ年上相手に無礼な態度だ。儀を重んじるわたしの苛立ちに拍車が掛かる。ぴくり、平生を保とうとする頬が引き攣った。
 よって常ならば穏便に指導し収拾できたはずの事態が、現状では怒りを爆発させる引き金にしかならなかった。――― ブチッ、と。瞬間、わたしは自分の堪忍袋の尾が切れる音を確かに聞いた。

「この痴れ者が!!」
「いっ!!?」

 我慢が限界に達すると同時に手が出た。ゴスッ、と鈍い音が上がり、彼奴は脳天を押さえて悶絶する。しかしわたしとて固く握り締めた右手の拳が痛い。人を殴ったのだから当然だが、それが酷く不条理だと思った。
 わたしはただ掃除後のごみ捨て役を決めるじゃんけんに、一発目にしてたった一人で敗北を喫してしまっただけだ。
 だから教室棟から遠く離れた構内の集積所であるここを訪れていた。それだけだ。この時近くで愛の告白なるものが行われていたことも、そうと気付かずこんな場所で聞こえた人の声に誘われて何気なくそちらへ目を向けたことも、すべては単なる偶然だった。告白されていた側の人間である彼奴 ――― 財前光と目が合ったことも、また。

 ところが彼奴はそんな偶然居合わせただけのわたしを“彼女”という名のダシにし、食い下がっていた相手を諦めさせるために利用し腐った。腹立たしい。実に腹立たしい。何よりも不愉快極まりない。
 偶然の重複に遭っただけで何故、鼻持ちならないこの男の恋人に仕立て上げられなければならないのか。理解に苦しむ。

「別に、そない怒らんでもええでしょ。減るもんでもないんやし」
「黙れ小童」

 固より鋭い眼光を更に細めて睨み付けて来る彼奴は、何故自分が手を上げられたのか理解できないらしい。
 不遜な態度を尚も崩さず、まるで自分こそが被害者だとでも言うような顔をしていた。それがわたしの怒りを増長させる。

「周囲に“天才”と持て囃され天狗になったか。人より多少テニスが上手いだけの餓鬼が、強豪と讃えられるテニス部レギュラーの座を射止めた程度の付加価値で調子に乗るな」
「なっ……!?」
「ほんの一握りの女共の煽てに乗った青二才が何様のつもりだ? それともすべての異性が己に好意的とでも思っているのか? だとしたら驕り猛々しい挙句に思い上がり甚だしい」

 財前光と言えば、西の雄と誉れ高い男子テニス部で二年生ながらレギュラーとなり、新学期間もない先頃一躍有名となった存在だ。しかしその名が知れ渡ったのは彼奴の実力が理由ではない。彼奴の所属する部活が顔の美醜で強さが決まるのかと言いたくなるような連中が集うテニス部で、中でもレギュラーは多くの女子から圧倒的な人気を誇る人間で構成されているからだ。
 そして冗談のようで本当な話、テニス部にはファンクラブなる非公式団体が存在している。尤もこの呼称は、彼らを神か仏のように偶像視する一部の過激な人間を皮肉った呼び方に過ぎぬものだが。
 何はともあれ、特に男を巡る場において、同性であることが恥でしかないほど陰湿になる女子が、厄介なことに集団となっているのだ。

 そんな連中が“制裁”という名の大義名分にもならない言い訳を掲げた単なる暴力行為に走り、被害者が出たという話は決して少なくない。更に言えば、先程彼奴に振られた女子は恐らくその過激派だ。立ち去る間際にわたしを睨み付けた瞳には、愛らしい外見に不釣り合いな獰猛な光りが宿っていた。
 あの様子では明日からわたしに降り掛かるであろう不幸を想像するのは難くない。彼奴の身勝手な都合に巻き込まれた身であるわたしには、あまりに傍迷惑で理不尽この上ないことだ。
 そして何よりも腹立たしいのが、己の取った行動がどんな結果を招くのか理解していない、彼奴の存在だ。

「自分こそ何様のつもりやねん。さっきのは確かに俺に非があったけど、自分にそないボロクソ言われる覚えあらへんわ!」
「そのような反論しかできぬから貴様は餓鬼なのだ。先見の明を持たぬ小童風情が吠えるな。笑止千万、片腹痛い」

 容赦なく切り捨ててやれば絶句する彼奴にわたしは鼻で一笑し、既に空になっているごみ箱を抱えて踵を返した。
 言いたいことを言って幾分腹の虫が収まった辺り、我ながら歪んでいると思う。だがこれ以上は彼奴と関わったところで晴れるものではない。明日以降の対処を考えた方が時間的にも余程有意義だ。
 だから既に思考が切り替わっていたわたしには、わたしの背中を呆然と見送る彼奴の視線は勿論、明日以降待ち受けているものが女子からの嫌がらせ以上の面倒であることも、当然ながら知る由はなかった。
きっかけは理不尽*100312